3月24日 主日礼拝3月24日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師マタイによる福音書 27章32~44節イエスは何故、十字架にかからなければならなかったのか。マタイ福音書の十字架の場面。人々がキレネ人にシモンに十字架を負わせる。イエスにぶどう酒を飲ませようとする。イエスについての思い思いの言葉を浴びせて侮辱をする。彼らは何をしているのか。押し付けている。自分のしたいことを自分の思いを自分の言葉を押し付けている。何故、押し付けられるのか。相手が反論してこないと知っているから。自分の言葉だけで押し通せると思っているから。相手はもういない。相手を無視して、自分だけに酔いしれる。この構造は何と同じか。「答え」私たちがすがる、利用する、時に支配をされる「答え」はこの構造。「ひとつの言葉」が提示され、反復、応援が得られれば、他者を制圧できる「答え」になる。イエス・キリストを十字架につけたものそれは「答え」「答え」私たちも持っている。私たちも求めている。ただ、それは神を否定するもの。我らは何故、「答え」を求めるのか。正しいことが必要だから間違ったことを行わないように。「答え」が必要と思う、その発想の根底にあるものは何か。世界が怖く、恐ろしいと思っている。天地創造の物語を信じていない。世界は「良い」を信じていない。「今すぐ十字架から降りてきたら信じてやろう」十字架上のイエスに投げられた言葉。期待したものが起こったら信じる。信じるが取引になっている。それが「信じる」なのか。こちらの納得が得られないと信じない。信じない場合もある。信じる。委ねること。賭けること。それができない。確証が得られるまでは。ここにある世界観も世界が怖い世界を信じられない。イエス・キリストの始めの言葉「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」明るいものがやって来る。取引ではない。信じようが、信じなかろうが、やって来る。やってきたもの、ここにあるものここにあるものと出会う。信じる。十字架のイエスに対する暴言人を救ったのに自分は救えない。神に救ってもらえユダヤ人の王彼らの暴言の共通点「そんなことは起こるはずはない」ありえないことばかりをあげつらいイエスを侮辱する。この三日目に、その後に世界に起こったことを私たちは知っている。彼らの言った言葉は全部、本当になった。イエスを十字架に追いやったもの「答え」取引で信じる起こるはずがないと思っていること。彼らに共通しているのは「ここまで」と線を引いていること。ここまで正解この線の内側なら信じる。この線の向こう側のものは起こらない、あるはずがない。聖書が私たちに告げていることその先がある。線を引いたのは私たち人間その勝手な区切り。神の造った世界人の引いた線のその先がある。その先神の子を十字架につけた私たちその私たちにも「その先」がある。誰にでも「その先」がある。近づいてきた神の国神の恵みとはそういうものその先で溢れているところそれがこの世界に本当のかたち2024.03.28 16:53
3月17日 主日礼拝3月17日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書20章9〜19節イエス様の譬え話。ご自分が十字架にかかる譬え話。ぶどう園を造った主人。神様を譬えている。造られたぶどう園世界。ぶどう園を任された農夫。私たち。主人が収穫の時に僕を遣わす。収穫を納めるようにと。ところが農夫たちは言うことを聞かない。私たちも同じ。自分たちで努力して作り上げてきたもの。富、仕組み・システム、社会、エネルギー、武器。それを手放せと言われても、承服できない。主人は僕を三人遣わす。どれも結果は同じ。三人とも袋叩きにされて返された。困った主人は一人息子を送ることにする。この息子が行けば、きっと理解をしてくれるだろうと。息子を見て農夫たちが思ったこと。私たちの農園を次に管理をするのはこの男だ。こいつがいなくなれば農園は私たちのものになる。農夫たちは息子を殺す。息子イエス・キリストなぜイエスは殺されなければならなかったのか。主人は収穫のものを持って来い、と言う。聖書の中で神様はたびたび、捧げ物を要求する。神は全知全能。足りないものはないはず。ならば捧げ物は必要ないはず。なぜ捧げ物を要求するのか。必要だから。神ではなく、私たちに必要だから。この世界を人は預かっている。この世界の中で様々なものを発見し、それを磨き上げ、社会を造って来た。自分たちの努力、功績それはまだまだ後代へと引き渡していくもの。手放すわけにはいかない。自分たちを守っている武力、富、ネットワークこれを手放すわけにはいかない。手放せば、簡単に敵に侵略をされてしまう。収穫を捧げろと神は言う。イエス・キリストは何を言ったのか。あなたたちが大切にしている律法。それを守れば神様に喜んでもらえると思っているがそれは違う。律法は「律法にしがみつけ」とは言っていない。律法はただ、人を励ましているだけ。イエスの言葉は律法を大切にしているものたちの逆鱗に触れた。私がすがっている律法を手放したら、私たちはどうなると思っているのか。武器や、富を手放したら、私たちはどうなると思っているのか。手放せなど、無責任の極みそんな秩序を犯すものなど、この世界にはいらない。十字架にかけろ。イエスはなぜ殺されたのか。手放せと言ったから。イエスの言葉が無責任と感じるもの。手放したらとんでもないことが起こると思っているもの。彼らはこの世界をどんな世界だと思っているのか。頼りになるものにしがみつかなければ闇に飲み込まれてしまう所。世界は闇が支配していると思っている。神は言われた。光あれそのようになった。神はそれを見て良しと言われた。どこに闇があるのか。どこに何かにしがみつかなければならない危険が迫っているのか。手放せ。本当の世界が見える。神が造った世界が見える。手放せ。自らの命までも手放したイエス。手放してどうなったか。「家を作るものが捨てた石」家を建てる時に社会を維持するのに邪魔だと捨てたもの「その石が隅の親石となる」捨てられたもの捨てるを実行したもの社会から無責任と罵られ、放り出されたもの。だが、そのものが世界の土台になる。この世界を支える基礎になる。最も大切なものになる。手放せ人に必要だから。手放せば世界が見えてくる。人が計算して予測したようなものでなくもっと大きく、もっと広い世界が見えてくる。良いとはこういうことかと、喜べる世界が見えてくる。受難節。キリストの苦難。手放す。これを求めれば人々から疎外される。受難となるだがそこを通れば、真のものが見えてくる。通るか、通らぬか。自らに問う受難節。2024.03.17 11:54
3月10日 主日礼拝3月10日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書18章9〜14節イエスは何を思い十字架への道を引き受けたのか。受難節に考えたい。神はどのようなものを良いというのか。言葉を替えるなら世界はどのような者を待っているのか。イエスの譬え話。二人のものが登場する。一人は落ち度のないファリサイ派今一人は罪深い徴税人。神殿でこの二人が祈る。ファリサイ派の者は感謝を捧げる。「自分は他の者たちのようにふしだらなものでなく、この徴税人のように罪人でもないことを」徴税人も祈っている。「神様、罪人の私を憐んでください」この話をイエスはこう結ぶ。神に義とされたのはあのファリサイ派ではなくこの徴税人だ、と。神に義とされる。世界に必要とされるものそれは徴税人の方だ。何が違うのか。ファリサイ派の祈り人と比べて、自分を確認している。あの人のようでなくてよかった。これは逆にもなる。あの人のようになれなくて悔しい。自分は不幸だ。神を呪う。自分以外のものに自分を預ける。依存し、支配される。自分が自分でなくなる。徴税人の祈り。「わたし」しか出てこない。罪人の私を憐んでください。自分以外のものを意識していない。ただ、私だけ。そこには依存も支配もない。そこが神に認められるところ。ただ徴税人の特徴はそれだけか。徴税人はなぜ祈るのか。経済的に豊かなのだから開き直る生き方もあったはず。こんな私で何が悪い。神など怖くない。一度の人生、楽しんで何が悪い。憐みなど、神に願わなくとも、人生を全うできたはず。それが、なぜこの者は神に祈ったのか。ここが本当の自分だと思っていないから。これが神に造られた自分だとは思えない。神が造った自分になりたい。天地の始め、神は世界を造って「良い」と言った。この世界は「良い」ところ。人は神に似て、良い者。今の私は神の造られたものになっているのか。なっていない。なっていないが、なりたいと願っている。良いものになれると信じている。神の造られた自分になる。だから彼は祈る。自分は良いものになれる。生活が何も変わらずとも、変えられなくとも良いものになれると信じている。祈る。自分は良い者。それは神の創造の出来事を信じている。神を信じている。それが神が義とする者世界に必要な者イエスは十字架への道をどのように考えていたのか。神に造られた自分になる。神を表す自分になる。ご自分の造ったもの、全てを愛する神。その愛を表す。それが私になること。十字架への道本当の自分へ進む道。2024.03.11 09:14
3月3日 主日礼拝3月3日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書17章20〜37節神の国はいつ来るのか。一番、大切なものといつ出会えるのか。イエスは答える。「ここ」「あそこ」にあるものではない。いつやってくるというものでもない。場所も、時間もわからない。空間と時間時空は「世界」「現実」を表す座標軸。その座標軸に当てはまらない。それが神の国。ならば存在しないのか。神の国はあなた方のただ中にある。私たちの中とはどういうことか。神の国に出会う前に「人の子」は苦難を受けなければならないとイエスは言う。「神の国」と「人の子・イエスの受難、十字架」とどういう関係があるのか。「私たちの中」と「人の子・イエスの十字架」とはどんな関係があるのか。イエスは何故、十字架にかかったのか。模範解答はある。私たちの罪の故私たちの罪の身代わりになって死んでくださった。正しい答え。私たちの中。私たちの中では、それでイエスの十字架についての納得がいっているのか。イエスの十字架とはそれですべてなのか。イエスの十字架を巡って、私たちの中で納得のいっていないものがあるのではないか。イエス・キリストその活動の最初、神はイエスについて語る。「これは私の愛する子。これに聞け」と。イエスとは何者か。神の愛する子。神の一人子。この言葉の故に私たちには疑問が生まれる。神にとってイエスが愛する者ならば、何故イエスは十字架にかからなければならなかったのか。もっと簡略化して言うならば神は何故、イエスを助けなかったのか。愛する一人子その一人が正しいことをしている。神の思いを実現している。神の御心にかなった者。その者が苦しんでいる。その者がこともあろうに間違ったものたちに殺されようとしている。裁きに行くのではないのか。間違った者たちを退治し、正しいイエスを守るのではないのか。神は何もしない。ただ、イエスが十字架にかかるのを黙って見ている。何故、神は何もしないのか。聖書の世界観創世記の創造物語に示されている。この世界は神の思いが実現したところ。この世界を神は見て、良しとされた。この世界はどういうところか。神にとって良いところ。この世界は良い。それが聖書の世界観。神は何故、悪いものを裁かないのか。イエスも、悪いものも、神にとって愛するもの。創造物語は事物を二つに分けていく特徴を持っている。空の星々も、地上の様子も太陽と月に分け、海と陸に分ける。二つに分ける。元は同じもの。男と女両者とも神に似ている。神の写し。元は同じ。あれとこれは違う。正解と間違いがある。この世界に境界線を引き、分けて整理をするのは人間の都合。神はすべてを「良い」と言っている。元は等しい。何故神は何もしないのか。イエスが神にとって愛する一人子ならその他の者もまた愛する神の子。神の国は世界の時空の中にはない。時空の中に収まるもの。「答え」正誤をつける優劣をつける時空の中に納められる。そこには神の国はない。時空の中に納めれれる枠組みには神の国はない。神の国はどこにあるのか。私に不利益を与える憎い相手その者も私と同じように神に愛されている。私の敵も私と同じ。納得はできない。腑に落ちない。それでもイエスを十字架を黙って見ていた神がいる。善悪を、優越を付けなかった神がいる。神の国は私の中にある。私の中にあるもの。愛するに値しないものをどうしたら愛せるようになるのか。問い続ける。価値観の異なる相手を風習の異なる異文化を、常識の違う異国をどうしたら愛せるようになるのか。敵をどうしたら愛せるようになるのか。正誤、優劣の境界線を引くのは簡単なこと。答えを作るのは容易なこと。そこに留まれば本当に大切なものとは出会えない。神に国はあなたたちのただ中にある。問い、求め、願い、祈る私たちのただで起こっていること。時空の中に置けないもの。私たちにとって本当に大切なもの。葛藤する者と神の国は共にある。2024.03.04 15:53
2月25日 主日礼拝2月25日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書 17章11〜19節皮膚病を患っている10人。イエスに助けを求める。「祭司のところに行って体を見せなさい」イエスの勧めに従って彼らは出かけていく。その途中、10人は病が治っていくのを感じる。元気を取り戻しイエスの所に帰ってきて、神を讃美する。一人だけが。「他の9人はどうした」その一人に対してイエスは告げる。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」この物語は何を語っているのか。良いことがあれば神への感謝を忘れずに、と言う礼儀に勧めか。イエスのもとに帰ってきた者の特徴は何か。この者は自分の病が癒された原因に神を感じた。ここに神がいる。少し拡大して言うならば、神はどこにでもいる。どこにでもいるから私の病にも目を止め癒してくれた。この者の神理解、神への信仰は私たちも理解をするところ。そして、私たちの信仰もまたこの者と同じ。神はどこにでも、いつでもいる。私たちはそういう信仰を持っている。ならば、次のような事態に私たちはどのように対処するのか。ロシアのウクライナ侵攻は2年経っても終わる気配がない。毎日、人の命が失われている。それはイスラエル、ガザでも同じこと。暴力が暴力を生み、憎しみだけが増殖されている。神がどこにでも、いつでもいるのなら、どうしてこのようなことが起こるのか。私たちはこのような事態についての納得のいく答えを持っていない。だが、それでも筋は変わらない。神はいつでも、どこにでもいる。従って、世界で今起こっている悲惨なこと。これまでもあった絶望的なこと。そこにも神はいた。だからこそ、私たちの信仰は鍛えられる。世界は闇であっても神はいる。ならば神とは何か。ヨハネに言わせれば「神は愛である」愛がいつでも、どこにでもある。それが世界。更にもう一つ続ける。愛とは何か。イエスが明確に語った「愛」「友のために命を捨てる。これに勝る愛はない」究極を語ったものであるが、これを言い直すとどうなるのか。命を捨てる。なんのために?友を生かすために。ならば、こう言える。友を何がなんでも前へと進めさせる。どんなことをしても、すべてを捨ててでも未来を与える。この世界には神がいる。それはこの世界には「愛」があるということ。愛のある世界はどういうところか。私をどんなことをしてでも前へ、未来へと進ませようとしているところ。暴力の溢れる世界。希望の見えない世界。そうであっても信じる。前へ行ける。私も、あなたも、世界も前へ行ける。ここが終わりではない。ここから未来へ進める。立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。あなたの信仰があなたを救った。2024.02.25 06:56
2月18日 主日礼拝2月18日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書 17章1〜10節受難節が始まった。イエスの十字架を覚える季節。イエスはなぜ殺されたのか。なぜ、憎まれたのか。その原因はイエスの考え方、世界観にある。イエスの世界観とはどのようなものか。ルカ福音書が残したイエスの言葉。ここに三つの話が連続して出てくる。三つは一見、何の関係のない言葉のようにも見える。だが、おそらくここに一つの思想が盛り込まれている。三つの話を貫くものは何か。一つ目の話。1日に七回罪を犯した者が悔い改めたのなら赦してやれ、と言う勧め。二つ目はカラシだね一粒の信仰があれば根をはった桑の木に「海に行って根をはれ」と言えばその通りになるというもの。三つ目の話。立派な仕事をしても「自分は取るに足りない僕。しなければならないことをしただけ」と言え、という話。三つの話を貫いているものは何か。一日に七回罪を犯したものを赦せという言葉。これを私たちはどのように解釈すれば良いのか。まず、大切なのは、これを普通、自然に、私はどのように感じるか。一日に七回も不愉快なことをするものを許せるはずがない、と。聖書を読むとは、その普通、自然、私ならの感覚を忘れてはならない。そこで解釈が始まる。なぜ、私は許すことができないのか。その者のしてきた「罪」「不愉快」という経験があるから。それがあるから許す気にはなれない。最もな感覚。しかし、それはこうも言える。その者がしてきた「罪」「不愉快」が私の心に張り付いて、余分な物が張り付いた心が生み出した判断だ、とも。すなわちその者の行為に私の心が支配されると「許せない」の感覚になる。二つ目も同じ。しっかり根をはっている木に向かって海に行けと言う。そんなことできるはずがないと私は普通に考える。しっかりした木は動かない。それが自然で、当たり前だと。ならば、その自然で、当たり前はどこから来たのか。これまでの経験、情報、物理的法則それから導き出した結論木は動かない。そして同じ問いが始まる。木が動かない。それはこれまでの常識、情報、それが心に張り付いての「答え」ではないのか。何か余計な物が張り付いた心は本当に世界を正しく把握しているのか。三つ目の話。私たちは立派な仕事、優秀な結果を残すことがある。その時、私たちは大いに喜ぶ。それは間違ったことではない。しかし、同じ問いが生まれる。私が喜んでいるのは、私の努力、他者からの評価、過去の私についてではないのか。今の私ではない、どこかの私に乗っ取られて、私は今、有頂天になっているのではないか。しなければならないことをしただけ。それが言えない私の心の状態は何かに心が奪われているから。三つの話は同じ構造を有している。人は心が歪になっていることに気がつかない。歪な心で見た世界が本当の世界だと思い込んでいる。自分以外のものが自分の心に張り付く。実は私たちはこれを積極的に行っている。自分以外のものを手に入れて自分を固めていこうと。富、名声、権力、同志自分以外のものを握りしめることによって私たちは幸福へと近づく。この発想を持っていたのがイエスを殺そうとした者たちの考え方。律法をちゃんと守らなければならない。神様に喜ばれるように正しい生活をしなければならない。良い姿勢のようにも見える。この良い姿勢のものたちから見たら安息日を守らない、罪人と付き合うイエスはとんでもない無法者のように思えた。その無法者が人々の人気を得ようとしている。早く処分しなければ早く十字架にかけなければ。イエスの振る舞いが危険だと思った人々。自分以外のものを握りしめなければと思う人々。彼らはどうしてそのように思うのか。世界が怖いと思っているから。この世界は怖く、恐ろしい。その世界を生き抜いていくためには自分の力だけでは不足している。自分以外もの自分を守り、自分の力になるものを少しでも多く集めよう。世界は怖いところだから。イエスは安息日を守らない、罪人と仲良くなる、律法を軽んじていくどうしてそんなことをするのか。信じているから。世界は神が造った良いところだと信じているから。だから、何も必要としない。何も持たない。律法も、常識も、自分以外のものを自分に貼り付けようとしない。自分以外のものその重たい荷物を下せ、とイエスは言う。世界が怖いと思っているものにとって「重たい荷物」は自分が守ってくれる武具。これを手放せば、自分は怖い世界であっという間にひとたまりもなく粉砕されてしまう。下せとは何事か。自分以外のものを自分から切り離していく。それを私たちがもし実行しようとするなら、世界を怖がっているものたちからは拒絶をされる。イエスと同じ苦しみを味わうことになる。受難節はイエスの苦しみに同情をする季節ではない。私たちの覚悟が問われる季節。自分に張り付いたものを手放す覚悟はあるか。世界は良いところと信じて生きる覚悟はあるか。この季節に私たちがなすべきことを行いたい。2024.02.18 17:38
2月11日 献堂式・内覧会2月11日献堂式・内覧会【式辞】伊藤大輔牧師新しい会堂が与えられた。ここに至るまでに、何度も教会とは何か礼拝堂とは何かを話し合ってきた。会堂とは何か。神の国を表すところ。では神の国とは何か。これについて聖書から明確な「かたち」を得ることは難しい。ただ、神の国を知る手がかりはある。天地創造の物語。神が世界を造る。ここに天国の手がかりがある。創世記の天地創造の記述。神は六日間かけて世界を造っていく。言葉で造っていく。神が言う。それは、「そのようになった」と結ばれる。できたものを神は見て「良し」とする。その繰り返しで世界は出来上がっていく。神は言うそのようなった良しとされたここにあるものは何か。世界観がある。神はこの世界を「良し」としている。この世界それは良いところ。ならば「良い」とは何か。神は言うそのようになった。ここに「良い」が語られている。世界は神が言った通りになった。それは神の思い、神の心がそのまま世界という形に現れでているということ。世界は神と同じ。世界は神の心を鏡に写したかのように神そのものが反映されているところ。神と世界が同じ対称性良いとは対称性があるということ。創世記の3章で人は蛇に唆される。お前は不十分。お前は神とは違う。自分は同じではない。非対称性が心に生じた時、人は執着を始める。自分の補うもの自分を補強してくれるもの。自分ではないもので自分を造ろうとする。自分と同じものではないもの、非対称性。人はこれを目指している。自分でない「富」「名声」「権力」「地位」自分でないものを身に付け非対称になることが人生の目的になっている。パウロの後期の手紙、フィリピの信徒への手紙ここでパウロは敵の存在を語る。自分に味方するもの自分を苦しめようとするものそういう存在があることをはっきりと語る。そしてこう言う。それが一体何だと言うのか。「どちらでもいい」と。これに続きパウロは「生きる」「死ぬ」を素材に語り出す。そして、どちらを選んで良いのか分からない、と語る。どちらも同じどちらでも良い世界とは何か同じ対称性のあるものパウロがたどり着いたものは何かどちらも同じどちらでも良い対称性本多記念教会の礼拝堂正八角形の対称性を有している建物です。私たちは忘れてしまう。自分が神に似ているものであることを神と等しいもの対称性のあることを世界が神の心を表していることを神と対称性であることを世界が良いと言うことを私たちは忘れてしまう。この世界は対称性で出来ている。正八角形の礼拝堂。世界の本当の姿を思い出す神の国を思い描くその礼拝堂で私たちはこれから礼拝を捧げてまいります。2024.02.11 14:20
2月4日 主日礼拝2月4日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書 6章6〜11節私たちはどんな一週間を過ごすのか。どんな時間をどんな一生を過ごすのか。安息日を覚えてこれを聖とせよ。一週間の中の一日だけ、安息日とする。何もしない日とする。聖書の舞台となっている世界の習わし。その起源は創世記。世界を神が造っていく。光を、星を、大地を神が造っていく。植物、動物、命あるものを造っていく。人が六日目に造られる。ご自分の造られたものを神は見渡し、それを「良い」とされた。そして七日目神はご自分の業を離れて安息をした。神が休まれた。それ故に人もまた休む。これがその始まり。ところが、そうと分かっていても、なかなか人はそれを守れない。休むことが大事休まなければ。いつしか、休むこと、安息日が規則、決まりの中に置かれていく。「安息日はこれこれのことをしてはいけない」安息日の決まりをちゃんと守れれば安息が実行される。安息日の決まりが出来上がった。安息日にイエスは会堂に入る。ファリサイ派、律法学者が待ち構えている。会堂に集まる人々の中に「手の萎えた人」を連れてきている。ファリサイ派、律法学者は見張っていた。イエスが手の不自由な人に何かをする。安息日に何かをする。それは安息日の規定を破ること。この社会の秩序を犯すもの。社会を壊すものとしてイエスを追放しようと。彼らの目論見を見破ってイエスは問う。「安息日に許されているのは正義を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」なぜ、安息日の守り方の規定が生まれたのか。神様を大事にしているから。神様を大切にしょう。こうしないと神様が悲しむ。神様に喜んでいただこう。良い心がけ。だが、ここにあるのは神との取引。更に言えば、なぜ取引が必要なのか。取引という緊張関係がなくなると世界が壊れてしまう。神様を怒らせると、不幸がやって来る。なんとか神様を怒らせないように、緊張関係を持続させよう。ここにある世界観は私たちが放っておくと神は怒り出す。何もしなければ悪いことが起こる。世界観世界の基底そこにあるものは「悪い」ものという考え方。天地創造の物語。世界はどういうところとなっていたか。神が見て、良いと言われたところ。この世界は良いそれが世界観。安息日とはどういう日か。神の安息と同じことをする日。世界は良いと思い、満足、安心する日。私たちの日常では世界の恐ろしさばかりに心が奪われる。心配、不安、恐怖私たちはそればかりを感じている。安息日。心配ばかりの毎日であっても「世界は良い」と思い出す。恐怖、心配、心に貼り付いたおもり。世界は良い。そう信じたらおもりを抱えていることが愚かに思えてくる。心に貼り付いたものを剥がしていくことができる。自分以外のもの。批判、評価、冨、地位、人のことば人の考え自分以外のもの。それは自分には必要ないと気が付いてくる。自分以外のものを剥がした時に何が残るのか。人の本質が残る。愛する。それだけがあらわになってくる。手の萎えた人を前にしてイエスは語りかける。「手を伸ばしなさい」その人は言われたとおりにした。私たちはどのような一週間を過ごしているのか。どのような時間をどのような人生を過ごしているのか。安息日を持っているか。心に貼り付いたものを見返す日を持っているか。貼り付いたものを剥がせるように世界を信じる日を持っているか。愛が湧き上がる日を持っているか。安息日の心愛するすぐそばの人の力になる助けになる共に喜ぶ平和が生まれていく2024.02.04 09:02
1月28日 主日礼拝1月28日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書 5章33〜39節伝統と今これまでとこれから。私たちは時間の節目を意識せざるをえないことがある。どちらを優先するのか。あるいは両方をうまく融合させるのか。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れる。古いものは捨て去れ。そうとも聞こえる。それがイエス様の本意なのか。聖書は確かな世界観を告げている。主イエスも同じ世界観を共有している。この世界は神が造った。その神はこの世界を見て「良し」と言われた。この世界は良いところ。それが聖書の世界観。ところが私たちは世界に怯えている。良いと思っていない。不安を抱え、恐れを持って世界と対峙している。恐ろしい世界に対して自分はちっぽけなもの。何かを手に入れなければ自分以外の自分を大きくしてくれる何かを。アダムとエバは「善悪の知識の木の実」を手に入れた。私たちの「善悪の知識の木の実」富、権力、名声・・・何か自分以外のものを手に入れなければ。執着が始まる。恐らく主イエスも、この執着と向き合った。そして執着を乗り越えた。執着を乗り越えた者の言葉だとしたらどう聞こえるか。みんなが断食をしているのにどうしてあなたたちは断食をしないのか。人々がイエスに尋ねる。これに対して主イエスは答える。花婿がいる前で断食ができるか?どうして人はわざわざ苦しい断食をするのか。何かを得るため?人に褒められたい?しきたりを大切にする?自分以外のものを抱えこもうとしている。世界が怖いからそうしているのではないか。断食はいけないと言うのではない。「断食はしない」という決意に心が奪われているわけではない。花婿が奪い去られる。悲しいことがあれば断食をする。そこでしたいと思うことをする。自分以外のものと自分をどうして合わせようとするのか。新しいものと古いものそれをどうして合わせようとするのか。何かを気にして、何かを心配して本来、合わないものを合わせようとしているのではないか。新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしないでしょ。新しいものは新しいもの。簡単なこと。新しい、古い、どちらが正しいではない。私がその時、何を選択するか。何にも怯えずに選択するか。新しいものは新しい古いものは古い私は私あなたはあなた。執着がなければ整理がつく。複雑なのは世界ではない。怯えている私の心が世界を歪に見ているだけ。ありのまま世界は良い。その信仰が世界をちゃんと見せ私のしたいことするべきことを見せてくれる。2024.01.28 12:54
1月21日 主日礼拝1月21日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書 5章17〜26節動けなくなる。物語に登場したのは病気を患っていたもの。だが、これは身体に限定しての話ではない。動けなくなる。心が動けない。明日のことが考えられない。自分のことが考えられない。何も考えたくない。心が動かない。動けないもの病気のものがイエスの所に運ばれてきた。イエスは、その人たちの信仰を見て「あなたの罪は赦された」という。物語では動けないものを動かすために必要なものそれは「罪の赦し」となっている。動けない原因は「罪」ということ。それは、そうなのかもしれない。だが、心が動けない経験のある私たちでも、罪の自覚が明確ではない。むしろ、人が自分に傷つけてきたから私の心が動かなくなった。被害者は私で、罪があるのは、その人の方だ、と言いたくなる。動けなくなった原因が罪とは必ずしも言えないのではないか。それでも聖書は言う。動けなくなる原因は「罪」であると。創造神話で世界の始めに「罪」を生み出したのはアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたこと。そこで起こったことはなんだったのか。神は人に伝えた「あの木の実は食べるな」「食べると死ぬ」と。あの木の実はお前たちに関係がない。この世界にはお前たちに関係のないものがある。関わってはならないものがある。関わる必要のないもの。そう言われていたにもかかわらず、それに人は関わっていく。必要のないものを自分のものにしていく。自分に関係のないもの。自分と関係のないものと関係する。それが罪その結果どうなるのか。自分が原因で動けなくなることがある。他者が原因で動けなくなることがある。過去で経験したこと。それらは、自分でどうにかできるものか。私次第で変わるものか。私にはどうすることもできないもの。ならば、それは私ではない。私と関係のないもの。私でないものを私のものだと抱え込むと心は止まっていく。未来も同様。未来を目指すは立派なこと。だが、未来は自分の思い通りになるか。私次第でどうにかなるものか。私がどんなに頑張っても、どうにもならないものがある。ならばそれも私次第ではないもの。私ではないもの。私と関係のないもの。その私ではないものを私だと思い込むと心は止まっていく。あなたの罪は赦された。あなたでないものは手放してもいい。洗い落としていい。もう自分のものだと思わなくていい。この言葉を人は受け入れられるか。未来の計画を捨てていいのか。自分の過去、業績、学歴、地位それが自分以外のものであることは分かっている。だが、それを捨てては私ではなくなるのではないか。私を形成しているのは私が努力して集めた私以外のもの。それを捨てたら、私は私でなくなる。心に負った傷。復讐を糧に生きてきた。それを捨てるのはこれまでの人生をドブに捨てるようなもの。私が私でなくなる。どうすれば捨てられるのか。イエスが病人とその友人たちに見たもの。信仰がある。動けるようになる。張り付いた病は捨てられる。自分以外のものは必ず剥がせる。彼らにイエスが見たものこのものたちは信じている。「起きて、歩け」彼らが信じた通りになった。どうすれば捨てられるのか。信じる。自分以外のものは自分ではない。本当の自分になる。捨てた先に本当がある。信じる。動き出す。2024.01.22 17:39
1月14日 主日礼拝1月14日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書 5章1〜11節イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか。主イエスがペテロを弟子にした物語から考えていく。夜通し漁をして何も捕れなかった漁師のペテロ。おかで網の手入れをしている。そこにイエスがやってきて船を出してくれと頼む。ペテロの船に乗り、丘にいる群衆に語りかける。群衆への話が終わるとイエスはもっと沖に漕ぎ出すように伝える。そこで網を打てと。夜通し漁をしても何も捕れなかった。ただ、先生のご希望なら、と網を放つ。するとおびただしい魚が捕れた。イエスを信じるとはどういうことか。ペテロは魚が獲りたかった。だが、それがかなわなかった。願い、希望、計画、夢。私たちにもこうであってほしいという思いがある。ただ、それは必ずしも実現するものばかりではない。思いが実現しない。自分と現実との間には開きがある。現実とはこんなもの。自分とはこの程度のもの。現実と自分との間に境界線を設け、それに納得をする。諦める、という納得。魚が獲りたい。それが、あなたの願いなら、もう一度、網を打て。同じことをあなたがしたいことをもう一度、してみろ。現代の私たちにはイエスの励ましの言葉は聞こえない。イエス様がいないから。だが、それは本当か。あなたは地の塩、世の光。私には私だけの使命がある。それがあるにもかかわらず、それが見えなくなる。それが聞こえなくなる。他者が気になるから。他者の言葉に引っ張られるから。他者、自分以外のもの。それは自分の過去も同じ。今の自分でないもの、過去。それに引っ張られる。できなかった自分。失敗した自分。それに引っ張られる。そして、今の自分でないにもかかわらず、それが自分だと思い込む。私でない私が出来上がる。網を打て。それがしたいのだろう。それが願いだろう。ならばそれをしろ。あなたの本当にしたいこと。それをしろ。おびただしいものが手に入る。あなたの願いが手に入る。ただ、そこが終わりではない。あなたの願いのその先にさらなる願いがある。「今から人をとる漁師にする」あなたの願いのその先に神の願いがある。神が備えているものがある。あなたが気がついていない、あなたの本当にしたいこと。イエスを信じるとはどういうことか。私の願い、その先の本当の願いそれに気がつく。本当の私に気がつく。イエスを信じるということ。本当の私を知るということ。本当の私になるということ。私のしたいこと。もう一度、網を打て。2024.01.14 06:22
1月7日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師マタイによる福音書2章1〜12節教会の暦・公現日イエス・キリストが公に姿を表した日。博士たちと出会った日。博士との出会いこの物語は私たちに何を告げているのか。東方の占星術の学者たち。ある日、今までに見たことのない星を発見する。これまでにないことが起こる。その星を追いかければ、今までにないことを目撃できる。博士一行は星に導かれエルサレムにやってくる。「新しい王様はどこにいらっしゃいますか」王であるヘロデは自分の知らないところで王が誕生したことを外国の者たちから聞かされて動揺する。エルサレムの者たちも不安になった。自分たちの知らない、自分たちについての情報を持っている。おそらく博士たちは一個大隊に匹敵するような部隊で移動してきた。その者たちが未知の情報を持っている。ヘロデは尋常ではいられない。王は一人。自分と自分以外のものと、どちらが王なのか。王は自分だ。ならば自分以外のものが王になることを阻止しなければならない。新しい王を亡きものにしよう。王は密かに決意する。預言者の言葉に「ベツレヘムにメシアが生まれる」との言い伝えがあることを博士たちに告げる。「新しい王の情報を詳細に報告してほしい」と告げて送り出す。博士たちは主イエスとその両親に出会い、携えてきた贈り物をささげる。夢で「ヘロデのところに帰るな」と告げられたので彼らは別の道を通って帰って行った。この物語は私たちに何を告げているのか。主イエスの誕生をめぐって二つのグループが現れている。一つは主イエスを拝みにきた東方からの博士たち。もう一つはヘロデを中心とするエルサレムの人々。ヘロデはユダヤの王、ユダヤ人の代表。主イエスとその家族、ユダヤ人。ヘロデ王の元で暮らすもの。そのヘロデたちはイエスを亡き者にしようとする。同じ国のものが、同じ民族のものが、最も近くのものがイエスを殺そうとする。「お前などいらない」近くの者の言葉。これはイエス・キリスト固有の物語か。おそらく聖書は個別、固有の物語を残すことに意義を感じてはいない。これは誰かの物語ではない。あなたの物語私の物語。近いものが私に言う。「お前などいらない」人生の中で何度か聞いたことのある言葉。その時、私たちはどうするか。近くのものを大事にしようとする。近くのものの批判に耐えられるように、近くのものの否定を和らげるように近くのものに愛されるように、私を修正していく。何をしているのか。近くのものを意識して、近くのもののことばかりを考えている。近くのものに心が奪われている。近くのものは私を受け入れない。それが当たり前だと主イエスの誕生の物語は告げている。遠くで星を見つけたもの。遠くから遥々イエスに会いにやってきた。イエス様だから起こったことか。これは主イエスの物語でもあるが、私の物語でもある。遠くの誰かがイエス様とつながっている。遠くの誰かがイエス様を待っている。遠くの誰か。物理的に離れた距離の遠くの誰か。遠い時間の彼方、これも遠くの誰か。遠くの誰かがあなたと会いたがっている。あなたは地の塩、世の光主イエスの生涯は自分の使命、賜物を全うした生涯。塩を光を全うした。そこではユダヤの風習、常識と相反することも行った。表面上の律法も守らなかった。近くの誰かのご機嫌など気にしてはいない。本当の自分をただ貫いた。有罪の判決を受けて十字架で命を落とした主イエス。近くのものたちによって命は奪われた。その主イエスの教えを、考え方を残そうと思ったものたちが聖書をまとめた。ローマの支配が強まり、自分たちの文化も、国土も失われようとしている。死刑囚の教えなどなんの役に立つのか。目の前に迫った現実にはなんの効力もない言葉がまとまられていった。近くのものには意味のないイエスの言葉がまとめられた。2000年の時間が流れる。エルサレムから遠くな離れた東京・代官山今やこの街だけではなく世界中のどこにでも教会はある。近くのものに否定をされたイエスの言葉遠くへと伝わって行った。遠くの誰かとつながっていった。遠くの私とつながっている。この物語は私の物語。私たちは何を目指して生きるのか。近くのものもちろん、これと争う必要はない。だが、これに心奪われれば、会うべき人と会えない。私には私の仕事がある。私の使命がある。私が出会わなければならない遠くのものがいる。遠くの誰か。神が待っている。会うべき方と会う。主イエスの生涯私の生涯2024.01.07 09:10