「終わりを望む喜び」
2017年9月24日 森下 滋神学生
詩篇 149編1-9節
テサロニケに信徒への手紙Ⅱ 2章1-17節
「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え」。
私たちは全ての事柄に終わりがあると思っている。
それは「勝手に幕を下ろす」こと。
では私たちに立ちはだかる死とはどのようなものなのか。
肉体的な死を否定することは残念ながら出来ない。
しかし聖書が語る永遠の命、体の復活とは何であるのか。
テサロニケの教会は主の日、すなわち神の裁きの日と、
それにともなう体を伴った復活を巡って動揺が起こっていた。
「主の日はすでに来てしまった」との言説が流布されていた。
だから「復活なんて信じても意味がない」と語る者たちが出現したのである。
こうして揺れるテサロニケの教会と、現代の私たちに対して、
「一大終末的イリュージョン」の方法で、
「主の日には何が起こるのか」がスクリーンに映し出される。
タイトルロールは「騙されるな」である。
登場人物は4人。
不法の者すなわち滅びの子、抑えるもの、主イエス、そして騙された人々である。
まず神に対する反逆が起こる。
そして不法の者が現れて「自分が神である」事を宣言し、
「サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議を用いて」(9節)、人々を惑わすのである。
現状として
「抑えるものがまだいるが、やがて取り除かれ滅びの子が出現する」ことが告げられる。
こうして滅びの子と主イエスの対決が描かれるが、
主イエスの神的な力により滅びの子は滅ぼされる。
結論は「この不義を喜ぶものは裁かれる」である。
「騙されるな」といっても騙されてしまうのが私たちの弱さである。
一体どうすればよいのか。
神により「選ばれ、招かれた」私たちは、
終わりの日に神の御前に進み出るために、
罪を悔い改め、聖なる者として日々浄められることを求めることである。
神は聖なる清いお方である。
ある死に面した者が主の祈りに反応して意識を取り戻した。
彼の最後の言葉は
「私の罪を許して下さい。私も他人の罪を許します。子供達をよろしく」であった。
私たちは勝手に終わりを設定することは出来ない。
主の日は、イエス・キリストに結ばれた私たちには
新たな喜びの始まりの日なのである。
私たちは終わらない。
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