法のもとで
2019年9月8日
伊藤大輔牧師
使徒言行録22章22-30節
パウロの活動の最後。
エルサレムでの弁明が始まった。
パウロとその周辺のものたち。
ここには対比がある。
世界をどのように見ているのか。
その違いがある。
「人々」「群衆」と表現されているパウロを糾弾するものたち。
彼らはパウロの言葉を聞いて熱り立つ。
パウロが語った内容は神に導かれて歩んできたということ。
人々は神を信じているもの。
ならば神に導かれたパウロを称賛、応援しても良いはず。
ところが彼らはパウロをなきものにしようとする。
ここに世界観がある。
「カインとアベル」もこれと似ている。
神に認められたアベルをカインが殺してしまうという話。
カインは何故アベルを殺したのか。
アベルにはカインにないものがあった。
神からの肯定。
弟は神からの「お褒め」を持っている。
自分にはそれがない。
自分は足りないもの。
不足を持っているもの。
人は足りないことに恐怖を抱く。
経済活動、点数主義、
足りないことを放置するのは危険なことと思い不足を補う。
アダムとエバは不足を補おうと「善悪の知識の木の実」を食べた。
カインは自分より持てるものを消去することで不足の苛立ちを解消した。
不足を持っている自分を許せない。
パウロを取り調べていた千人隊長は
パウロが「ローマ帝国の市民権」を持っていることで驚き戸惑う。
千人隊長もまた足りないものを補うことで生活が豊かになると信じていたもの。
パウロの弁明は全てを捨てた話。
人々から尊敬を受けた業績も、市民権を持つ生まれも、全てはいらないと言う。
パウロの人生でキリスト者としての歩みはほんの一瞬。
その他ものは全部塵芥だという。
パウロも足りないものを求めて走ってきたもの。
信仰があれば良い、というような努力を軽視する教会の言葉が許せなかった。
だが神を求めるうちに私の足りないものを注視し怒るものが神ではなく、
この私を大好きだと思ってくださるのが神ではないのか、との思いにたどり着く。
足りなくても、持っていても、このままで良い。
この私で良い。
パウロへの裁判は不当なもの。
正義が足りないとの主張はいつでも言える。
だがパウロは法のもとで裁かれることを望む。
何も不足していない。
このままで大丈夫。
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