5月17日礼拝

9時(こども)礼拝

伊藤大輔牧師

ローマの信徒への手紙8章38-39節

 私たちは未来を想像すると、どんな気持ちになるでしょうか。

 明日のこと 明後日のこと 

想像しても、平気でいられます。  

来年のこと オリンピックは本当に開かれるのか 

少し、心配なってきます。


もっと先のこと 

私たちは、思い通りの学校に行っているでしょうか 

希望している生活をしているでしょうか。  

今、一緒に過ごしている家族、お友達、 

きっといつまでも一緒にはいられません。 

私たちは先に行けば行くほど、

お別れをたくさんしなければならなくなります。 

そして、私たちはいつか死ぬでしょう。 

みんながまだ、そこにるのに、 まだ仲良くしているのに、 

私だけ、いなくなる。 

 ひとりぼっち。 

さびしい。 

先のことを考えると、

悲しくなり、怖くなります。 


パウロも先のことを考えると怖くなりました。 

そこで、パウロは自分がひとりぼっちにならないように、 

みんながいつまでも自分のそばにいてくれるように、 

人気者になるための努力をしました。 

勉強をしました。 

「パウロが必要だ」「 パウロと友達でいるといいことがあるぞ」

パウロはみんなが自分から離れないように、

みんながいつまでも自分をほめてくれるように、

みんなが大切にしている律法もしっかりと勉強をしました。 

それでもパウロは「ひとりぼっちになる」 その気持ちを消し去ることはできませんでした。  


イエス・キリストとその弟子たち 

パウロはその者たちが大嫌いでしたが、 

その者たちのどこが間違っているのか、明らかにしようと、

教会の教えを調べ始めました。 

すると、いろいろなことがわかってきました。 

その中の一つ。 

 イエス・キリストは「ひとりぼっち」を怖がっていない。 


弟子たちに見捨てられ 人々から

「十字架につけろ」とののしられても 

イエス・キリストは怖がっていない。 

 何が自分と違うのか。 


パウロはひとりぼっちが怖かったです。 

怖がる気持ちを忘れるために何をしようとしていたか。 

愛されたい。 

人から、 

一人でも多くの人から、 

みんなから 愛されたい。 

パウロは愛されることに一生懸命になっていました。 


でも、ひとりぼっちが怖いの気持ちを忘れることができない。

イエス・キリスト 

誰からも愛されていません。 

みんなから憎まれています。 

でも、ひとりぼっちを怖がっていない。 


ひとりぼっちの時、 

愛されていない時、

イエス・キリストは何をしていたのか。 


愛していました。 


裏切った弟子たちを、 

憎んでいる人たちを、 

こんな目に合わせた神様を愛していました。  


パウロ、「愛されること」を求めていました。 

イエス様、「愛すること」をしていました。  


愛すること それは私たちの世界で一番大切で、

 人を、自分を、 本当に、元気にするものです。  


愛する 

それがちゃんとできれば、私たちは「ひとりぼっち」が怖くなくなります。 


皆さんは 幼稚園、小学生、中学生 

こどもです。

こどもの時は「愛されること」 それをたくさんもらってください。


皆さんはやがて大人になります。

大人になる、ということは「愛されれる」ことに加えて 「愛すること」を覚えることです。  


今の社会は自分の街は大事だけれど、他の街はどうでも良い 

自分の国は大事だから、他の国はどうなっても良い 


そんな気持ちが増え始めています。  

愛することが忘れられ始めています。 

大人ではなくなってきています。

 

世界で大切ものは何か。 

それを知っているものは、

この世界をちゃんとしてものにしなければならないでしょう。  


愛する。 

やがて、皆さんが行う大切なことです。 

 そのことをどうか忘れないでいてください。  


 

主日礼拝

西川優子神学生

ヨハネによる福音書16章25節~33節 

この個所は、イエスの遺言。 

悲しみで一杯だった弟子たちの心。 

先週は、「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前にわたしを憎んでいたことを覚 えなさい。」というところを読んだ。


この世にとって、イエスや弟子たちは、敵であるよ うな言い方。 

そんな世にあってこれからも生きる弟子たちに、イエスは、自分がいなくなったら自分 の名前を使って神様に祈りなさい、と言われる。

イエスの名前で祈れば、直接神様につながる。

そんな道をつけてくださるという。


これは言ってみれば、神様という銀行口座のイ エス名義のキャッシュカードをくださるようなもの。

 しかしこれを聞いた弟子たちはイエスに対する自分たちの忠誠心を、強調する。

この後 彼らがイエス様を見捨てて逃げ去ることを、イエスはご存じである。 

それでも、イエスは「あなたがたが私によって平和を得るため」こういう話をしたと言 われる。


イエスによる「平和」とは? 

そして「この世であなたがたには苦難がある」というイエスの言葉。

生きている限り誰 しも、

抱えきれない悲しみ、

苦しみ、

後悔などに負けそうになる時がある。 

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 

これから十字架にかかる人が「究極の負け」というのならわかる。

しかし、「勝つ」と は? 


私は逆に「負ける」ということについて考えた。

自分が完全に負けたのに、相手を心か ら讃えたくなるような負け、

そんな「負け」があると思った。 

それは、敵だと思っていた相手から「愛されている」ことを知った時。

敵だから当然こ ちらは戦闘態勢でいるが、相手は戦わない。

それどころか、私の幸せを願っている。

その ために自分の命までも与えてくれた。 

その人に、私は、完敗した。

 私に勝ったその人は、ご存じ、主イエス・キリスト。


イエスが「勝った」というのは、 だから「愛した」という意味なのだ。

敵意という、私たち自身を滅ぼしかねない恐ろしい ものを、

イエスは、負けると言う方法で、

つまり十字架で、滅ぼしてくださった。

これこ そイエスが下さる「平和」。 

この平和が与えられているから、「勇気を出しなさい」。 

これは、「元気でいなさい」とも訳せる言葉。


私の田舎の母は、「元気でいなさい」と 、私にいつも言っていた。

遠いところに行って、会えなくても元気でいなさい。

イエスも 弟子たちに、私たちに、そう言っておられる。 


生きている人のこの世界と、亡くなった人たちの世界のどちらにも行かれたイエス。

だ から、どちらの世界にいてもイエスの声は聞こえる。 

もう死んでしまったあの人も、今この礼拝で、イエス様の言葉を聞いている。

そしてい つかまた必ず会える。

だから、今は悲しくても、

「元気でいなさい。」

「勇気を出しなさ い。」 

イエスは私たちに、そう言っておられる。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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