本多記念教会

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8月31日 主日礼拝

8月31日  主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章35ー40節パウロのフィリピでの出来事。この物語は読者に何を伝えているのか。パウロは女占い師に貼り付いていた悪霊を追い出す。これによって金儲けができなくなった主人たちがパウロを捕らえ高官に引き渡す。主人たちとは何者か。経済を大事にしている者。パウロが投獄されていた時に地震が起こる。牢の扉が全部開き、それを知った看守は囚人が逃げ出したものと思い込み自害しようとする。パウロによって全員が残っていることを知らされ、パウロに教えを請いたいと願い出る。看守とは何者か。仕事を大事にしているもの。高官はパウロたちを釈放することに決め、それを彼らに告げる。ところがパウロは自分はローマの市民権を持つものだと伝える。驚いた高官はパウロのところに飛んできて詫びを入れる。高官とは何者か。権力、秩序に忠実なもの。経済、職務、権力、秩序を大切にする。何も悪いものではない。私たちと同じ価値観を有している者。これに対してパウロとは何者なのか。これを考えるためのひとつの手がかり。パウロに追い出された悪霊。悪霊は何も抵抗をしない。決まっていること、変わらないことを分かっている。無駄な抵抗はせずにさっさと退散をする。悪霊は知っている。変わらないものがあることを。経済、職務、権力、秩序を大切にしている者たちの共通点は何か。世界は怖いと思っている。怖い世界を生き抜くために経済、職務、権力、秩序にしがみつく。世界は努力次第で変わると思っている。パウロの持っているローマの市民権。この後、パウロはまたエルサレムで捕らえられる。その際にもまたムチで打たれそうになる。その時、パウロは今度はムチで打たれる前に市民であることを告げる。フィリピではムチで打たれてから。エルサレムではムチで打たれる前。なぜ市民権を公表するタイミングが違うのか。理由は定かではないが、分かっていることはパウロは市民権を公表する時期を定めていない。市民権を自分の権利として固辞しようともしていない。どうでもいいものとすら思っている。自らの生い立ちをパウロ自身が語る言葉が手紙の中に残っている。立派な肩書、それを列挙した後にパウロはそれはどうでもいいものと思っていると語る。なぜパウロは権威に執着をしないのか。知っているから。世界は変わらないと知っているから。世界を造った神は、この世界を「良い」と言った。世界は良い。それは変わらない。ならばなぜ、何かにしがみつく必要があるのか。この物語は読者に問いかけている。世界には変わらないものがある。それを求めているか?

8月24日 主日礼拝

8月24日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章25ー34節ルカは物語を通してどのような世界を描こうとしているのか。言われなき咎で牢屋に入れられたパウロとシラス。夜に大地震が起こる。牢屋の扉は全て開く。看守は囚人は全員逃亡したものと思い自害しようと短刀を抜く。その時、パウロは声をかける。「皆、ここにいる」と。「ない」と思っていたものがある。これが本当の世界なのか?看守はパウロに願い出る。「救われるためにはどうすればいいか」自分の知らない世界、本当の世界で生きるためにはどうしたらいいのか。パウロは答える。「主イエスを信じなさい」主イエスとは誰か。この直前の物語。パウロは「イエス」の名によって悪霊を追い出している。同様の場面は他にもある。イエス自身が悪霊を追い出してもいる。その顛末は全て同じ。イエスの前から、イエスの名前の前から悪霊は抵抗することなく退散している。歯が立たない。勝負は見えてる。決まっていること。変わらないこと。人は「ああすればこうなる」と因果律を仕立てる。因果がうまく回るように準備をする。不足がないか整えていく。自分たちはいつも足りない状態。準備怠りなく足りないものを補っていく。点数、経済力、仲間、地位、兵器。他と比べて足りないものがあればそれを修正していく。それがこの世界を生きる術。この世界では足りないものがあると敗北する。努力次第で変わる世界。努力をしなければ負けていく世界。世界を変えるのは自分次第。それは本当の世界か。ルカは問うている。楽園で蛇に唆された人間。足りないものがあると言われた。「足りない」は蛇の言葉。神の言葉ではない。ならば神の言葉とは何か。イエス・キリストとは誰か。十字架にかかり、命を落とす。命をなくしたもの。命が足りなくなったもの。そのイエスは三日目に甦る。命を持っている。なくしていない。失っていない。始めからあるものは変わらずある。神は世界を造った時に言った「これで良い」と。変わらない、決まっている。「良い」がこの世界。足りないものは何もない。なくても良いもの、持っていても使い道のないものを人は欲しがるから「足りない」との錯覚に陥る。この世界は錯覚を続ける場所ではない。本当とは何か。真実とは何かを求めるところ。ないと思っているものはある。私は全てを持っている。変わらないものがこの私に備わっている。私自身。それは変わらず永遠へとつながっている。世界はどういうところか。変わらぬ私を知るところ。そこに世界の真実がある。

8月17日 主日礼拝

8月17日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章16-24節フィリピの町でパウロは捕らえられる。女占い師。この者がパウロにつきまとい、彼の行動を妨害する。たまりかねたパウロが占い師に取り付いている悪霊を追い出し、黙らせる。この占い師にはこの者を金儲けに利用していた主人たちがいた。パウロの悪霊払いによって占い師が静かになったことで金儲けが出来なくなった。怒った主人たちがパウロを捕まえ役人に引き渡す。ありもしない事実をでっち上げ、罪をなすりつける。パウロ、そしてイエスもなぜ、人々に反感を買うことが予想できるのに、それを実行するのか。迫害の中になぜ自ら進んで飛び込んでいくのか。ひとつの手がかり。悪霊払い。パウロが行ったこと。イエス・キリストの名によって悪霊を追い出す。イエスもかつて同じように悪霊を追い出してきた。これらの出来事に共通していることが悪霊はすぐに退散をすること。反抗したり、戦いを挑んだりはしない。すぐに負けを認めイエスの言いなりになる。悪霊はイエスとは始めから勝負にならないことを知っている。勝負はついている。人間はどうか。イエスに、パウロに逆らい、反抗し、その命までも奪おうとする。悪霊とイエスの関係性。人はそれを知らない。人の知らない関係性がある。世界がある。私たちの知らない世界。この世界にはそれがある。勝負がついている世界。変わらない世界。パウロ、イエスはそれを知っている。なぜ、迫害が待ち受けているところに飛び込んでいくことをしたのか。知っているから。変わらないものが何かを知っている。水は100度になれば気化する。ニュートン力学。相対性理論。量子論。人は一瞬、これが世界の変わらないものを見つけてきた。それでも、本当に変わらない世界はもっと先にあると知らされる。変わらないものがある。勝負のついているものがある。それを私たちは求めている。聖書が語る変わらないもの。創造神話。世界は良い。それは変わらない。変わらないものがある。それを見失ってしまうのは私たちが「変わらないもの」から遠ざかって行くから。自分には足りないものがある。知識の木の実が必要。自分以外のものを貼り付けると変わらない世界から遠ざかっていく。信じる。自分に問う。悔い改めて福音を信じる。神の造られた世界は決まっている。その世界を生きているとの自覚を私たちは持っているのか。

8月10日 主日礼拝

8月10日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章11-15節自分の計画、予定が思い通りにいかない。パウロたちは伝道旅行で何度も経験をした。使徒言行録は何を描こうとしているのか。世界を描く。この世界は自分の思い通りになるものではない。自分が正しいと思っているのと、同じくらい、私の正しさと違うものを正しいと信じているものがいる。あたかももう一つの世界があるかのように、この世界には別のものがある。異邦人世界。そこはユダヤ人のパウロたちにとっては別の世界。別の世界だからこちら側のものが通じるとは思っていなかった。神様、イエス様の言葉。こちらの世界観が通じるとは思っていなかった。ところがそれが通じた。こちらとあちら。それが接点、共有力があった。私たちの現代でも同じことが日常的に起こっている。個人から始まり、組織、民族、国家、ことらとあちらは別の世界だと思い込んで生活をしている。使徒言行録の語る物語。その異なる世界はいずれ必ず直面しなければならない。どういう形にせよ、異なる世界は必ず接触する。私たちはその時どうすればいいのか。新しいものをなんでも受け入れればいいのか。あるいは自分たちの価値観を押し通せばいいのか。怒り、衝突、戦争は異なる世界との接触の緩和性の欠如から起こる。異なる世界は本当に異なるものなのか。ペンテコステの朝に起こった出来事。使徒たちが外国の言葉を語り出した。使徒たちは外国の言葉を聞き分けることができた、ではない。自分の言葉として、自分の体で、外国を表現した。自分と異なるものに自分自身がなった。この使徒たちがやがて異邦人伝道を展開していく。外国を体の中で、自分で経験をしたものたちが異邦人伝道、異なる世界と接点を結んでいく。異なる世界とどのように接触をすればいいのか。ペンテコステの朝に使徒たちに降った聖霊。新しいものではない。人類の初めに神から吹き込まれたもの。すでに備わっているもの。すでに私にあるものを思い出す。懐かしさ、本当の私が親しみを覚えるもの。文化、風習、富、名誉、社会の中で自分が身につけたもので判断をするのではない。本当の自分。この世で作られた自分ではなく、神が造った本当の自分で世界と向き合う。そこにあるものは異なるものか。私の中にもあるものか。私自身か。異なる世界とパウロたちは直面する。その伝道は自らを知る、自らを思い出す旅でもある。この世界は本当に異なるものの集合体なのか。それとも同じものを持っていながらそれを忘却してしまっている群なのか。自らに問えば自ずと世界の姿を見ることができる。

8月3日 主日礼拝・平和聖日

8月3日 主日礼拝・平和聖日礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章6ー10節夢とはなんでしょうか。眠っている時に見る夢。将来を語る希望を語ることも夢と言われます。全く違うところにあるものですが同じ表現「夢」で表されます。夢てなんでしょうか。パウロは夢を見ます。その夢を信じて出かけていきます。異邦人のところに出かけていく。少し前には考えられなかったことです。神様のことが分かるのはユダヤ人だけ。神様を信じられるのはユダヤ人だけ。みんなそう思っていました。ところがペテロがローマの軍人コルネルウスに神様のことを話す。イエス様について話す。すると彼らは皆、信じた。異邦人にも神様への信仰が生まれる。ここから教会の異邦人への伝道が始まります。これに伴って、ある議論が生まれます。異邦人にも律法、ユダ人が守っている規則を守らせるべきだ、という主張し出すものが出てきます。ペテロ、パウロはこれに反対をします。神様を信じることと規則は関係ないと。議論の末、異邦人へ律法を強要することはなくなりましたが、それはイエスを信じる群がいよいよユダヤ教と袂を分かつことでもありました。律法を重んじないものたち、異邦人と関係を深めていく。それはもはやユダヤ教では容認できないものになっていました。ユダヤ教から離れていく。教会が生まれてきました。大きな変化が起こりました。大きな変化。そのきっかけになったのはペテロのローマの軍人への訪問です。ペテロがそこを訪ねた理由、それは夢を見たからです。夢を見て、そこに行けと言われたのでペテロは彼らに会いました。きっかけは夢です。夢てなんでしょうか。イエス様が生まれる時、マリアの赤ちゃんが誰の子かわからない時、別れようと思っていたヨセフがマリアと結婚をします。イエスの父親になります。ヨセフにその決断をさせたもの、それは夢を見たからです。イエス様の誕生、その大きな変化があるところにも夢が働いています。夢てなんでしょうか。寝ている時に見るもの。自分の未来について思い描くもの。その二つが何故夢という同じ表現で括られるのか。夢、それは自分以外には分からないものだからです。自分にしか分からないもの。自分にか見えないもの。誰も、それを一緒に見たよ、とは言ってくれないもの。自分だけのもの、それが夢です。聖書では大きな変化がある時「夢」が登場します。夢、それを見たものだけ、それを信じたものだけ、その一人が行動を起こす。その時、世界は動き出します。宗教の話、キリスト教の話ではありません。人類の話です。現実の世界の話です。世界が動く時、変わる時、夢がそこには必ずあります。今日は平和聖日。平和を覚える日です。なぜ戦争が起こるのか。平和が崩れるのか。みんなが怖いという。みんなが悪いという。みんながそうだという。みんなが、みんなが。みんながという時、「夢」はどこにありますか。夢がなくなった時、戦争が起こります。世界が怖い。当たり前です。誰もが思います。でもそこで創世記の神話「世界は良い」。この神話を誰もが「そうだ」とは言わない。でもそれが私の夢ならば、それを信じるしかない。イエス・キリスト。誰からも「そうだ」と言ってもらえず十字架で生涯を閉じた。ただイエスは自分の信じた道を歩んだ。夢を信じた。神は世界は良いと言われた。それは私の夢も良いと言われていること。ならば何故、夢を捨てるのか。みんなの中に埋没、葬り去るのか。私の見た夢。私しか知らない。私しか見えない。みんなと違うから間違っているではない。私にしか分からない。それこそが大切。私が見たもの。それを信じる。夢を信じる。世界を未来につなげていく。平和を作っていく。夢。この世界に掛け替えのないもの。私も同じ。あなたも同じ。世界に一つだけのもの。一つだけのものが世界に命を吹き込んでいく。

7月27日 主日礼拝

7月27日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師会議の決定と言えば絶対的なもののはず。ところがパウロはそれを軽んじるかの行動をとる。会議とパウロ対立しているのか、それとも他に何かあるのか?ーーーーーーー使徒言行録16章1-5節エルサレム会議とはなんだったのか。会議で一致を見る。その会議の直後、パウロとバルナバは仲違いをする。会議で異邦人には規則を押し付けない。割礼を強要しない。その決定の直後、パウロはテモテに割礼を受けさせる。パウロは会議を無視したのか。軽んじたのか。パウロの言動。おそらくそれはエルサレム会議の内実を表したもの。エルサレム会議で決まったこと。それをパウロは体現している。割礼を強要しない。割礼を勧める。相反することが両立する取り決め。何が決められたのか。パウロ、バルナバ、彼らの行動のどこが会議を引き受けたものなのか。パウロ、バルナバ、自分の信じたことを行う。パウロはテモテに割礼を勧める。自分の信じたことを行う。エルサレム会議で決まったこと。異邦人に何も強制しない。それは表現を変えるなら「自分で決めろ」過去の習慣。規則、風習、常識引き受けるも、批判するも、自分で決めろ。私たちはなぜ自分で決めることに戸惑うのか。規則に従うことが大事だと考えるのか。怖いから。失敗したらどうしよう。責任が自分に及んだらどうしよう。この発想に「世界は良い」との世界観はあるのか。世界が良いと信じていないから失敗、責任が怖くなる。世界が良いと信じているなら失敗も、責任も大事ではない。エルサレム会議、パウロたちに「世界は良い」を教えた方。イエス・キリスト人々の誤解、嫉妬、企み、その結果、命を落とす。勘違いで死なせてしまった。殺さなくていい方を殺してしまった。その三日目にイエスは甦る。大いなる勘違いはそれが結論ではない。復活がなければ取り返しにつかないものがある。その責任は自分で負わなければならない。失敗は一生自分が背負わねばならない。だがそれは真の世界ではない。失敗、罪、その次がある。世界は良い。それが真の世界。ならば他人に、過去に、何かに怯えて生きることはない。自分で決められる。世界を信じて、自分で決める。エルサレム会議で決まったこと。矛盾、整合性、前例そんなものはどうでもいい。自分で決めろ。教会はこの会議の決定から生まれた。私たちの教会は会議の決定を継承しているか。

7月20日 主日礼拝

7月20日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録15章36ー41節異邦人に対して規則を押し付けない。一致を見たエルサレム会議。会議の後、教会は再び異邦人伝道を開始しようとする。パウロとバルナバをその勤めに任じる。その矢先、パウロとバルナバの間で衝突が起こる。バルナバがマルコという若者を帯同しようと提案する。これに対してパウロは反対する。かつて一緒に働いていた時に逃げ出した前歴がある。マルコはこの勤めにむいていないと。バルナバとパウロの間に激しい論争が起り、ついには決別をするに至る。それぞれバラバラに伝道に出かけていくことになった。一つになったエルサレム会議。その直後に主力の二人が分かれ分かれになっていく。誰もが望んでいたものではない。積極的に行いたいものではなかったはず。それでも分裂、分かれは起こる。どちらが正しく、どちらが間違っているのか。白黒、善悪、優劣私たちは分かれが起こった時、そういう切り分け、整理を行いたくなる。だが使徒言行録はそういう判断をするような材料は提示していない。実際、教会は分裂を繰り返してきた。東方教会、西方教会に分かれる。宗派、教派が生まれる。カトリック、プロテスタントに分かれる。教会は分かれることを繰り返してきた。どちらが正しく、どちらかが間違っている。そういう判断、評価もできるかもしれない。だがその評価を求める前に私たちは歴史を視野に入れる必要がある。教会が今日世界に広がっている。世界中の至るところに教会がある。どうしてあるのか。分かれた教会がそれぞれに歩んで行って世界に広がった。なぜ広がったのか。その原因は何か。分かれたから。分かれたからこそ教会は世界に広がった。教会だけの話ではない。私たちの生活で、家族でも、学校でも、会社でも、私たちは分かれを経験する。それは辛く、悲しいものがほとんど。だが、それが結論、最後の形ではない。その先がある。教会は分かれて、辛い思いをして、時には憎しみや怒りを伴いながら広がっていった。次の教会の形を作り出していった。人の思いでは否定したくなる分かれ、それも神の御手の中にある。バルナバと決別をしたパウロ。神を宣べ伝えるという同じ目的を持っていながら、どうしても一致することが出来なかった。おそらく怒ってバルナバと決別をしたのであろう。このパウロが晩年に記した手紙。フィリピの信徒への手紙。その手紙の中でパウロは語る。牢獄にいる私を励まそうとしてキリストを伝道しようとするものもいる、逆に私を否定するようにしてキリストを宣べ伝えるものもいる。だが、それがなんだというのか、どちらにしてもキリストが宣べ伝えられているのだからどちらでもいい。生きるも死ぬもどちらでもいい。富んでいても貧しくともどちらでもいい。どちらでもいい。手紙の中でパウロは「どちらでもいい」を繰り返す。どちらから行っても行くべきところにはちゃんと行ける。この道しかない、私しかない、私が正しいそんなことはどうでもいい。どちらでもいい。どちらも正しい。どちらから行っても世界ちゃんとしたところに辿り着ける。世界はそういうふうに出来ている。神が造った世界とはそういうところ。そういう世界に私はいる。どちらでもいい。信じられるか。

7月13日 主日礼拝

7月13日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 15章22~35節「すべてお任せします」要望のない白紙の手紙。エルサレム教会から異邦人の教会に送られた手紙。規則を重んじるものは主張した。異邦人にもユダヤの規則を守らせるべきだ。これに対しパウロ、ペテロらは反対する。規則を軽んじているわけではない。思い返している。イエスは私たちに何を教えたのか。モーセの十戒は本当は何を語っているのか。創世記の創造神話は何を伝えているのか。世界は良い。それを示している。規則が大事。それは世界を良いところと思っていない思考回路。規則がないと世界がダメになる。規則がないと人は幸福へと進んで行けない。規則に依存して世界は成立する。善悪の知識の木の実に依存んして幸せになる。蛇の世界観何もしなければお前はダメだ。人は、世界は悪いもの。規則が大事の世界観。教会の最初の会議。エルサレムで話し合われたこと。私たちは何を一番大切にするのか。世界が良いと思った時、何が大切になるのか。何も必要ではない。会議の決定。あなた達にお任せする。何も要求しない「白紙の手紙」が送られる。白紙に記されている言葉がある。信じる。あなた達を信じる。この世界を信じる。良いところと信じる。信じる故、何も語らない。最初の教会の会議の決定を私たちは継承しているか。信じているのか?私が言葉を発する時、その言葉は世界は良いと信じて発する言葉なのか。私が選択をする時、その選択は世界が良いと信じて選んだものなのか。私が決断をする時、その決断は世界が良いと信じて覚悟したものなのか。エルサレム教会の決定はその後の私たちの生活を促している。問うているか。今、いつでも問うているか。世界は良いと信じているか。規則にすがれば問わない、考えない世界が始まる。だが、教会のなした決断は「問う」こと。考えること。信じること。世界は良い。この光の見えない現実の前で問い、思考し、信じるものが未来を造っていく。教会は2000年、そのように歩んできた。

7月6日 主日礼拝

7月6日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 15章1~21節規則は必要なのか。初代の教会で議論になる。信仰を持った異邦人。この者たちに律法を守らせるべきか、否か。パウロは反対する。これからは規則の時代ではない、と。規則を大事だとするユダヤ人たち。彼らの思いは何か。規則が組織を立ち上げる。秩序、世界を構築するものだと思っている。ペテロは言った。誰も守れないではないか。自分たちが守れないものを何故、人に押し付けるのか。パウロ、ペテロと規則を重んじる人々と何が違うのか。パウロ、ペテロも元々は規則を重んじる者たち。その彼らが何故、規則を必要ないと言い出したのか。パウロ、ペテロ、彼らは経験した。異邦人伝道を経験した。規則を持っていない人々にも福音が伝わった。秩序を重んじ、正義を行い、平和を愛する。異邦人にもそれができる。規則ではない。規則を重んじる人々。その理由はどこにあるのか。神様を大切にしたい。神様に喜んでもらいたいと願っている。そのために生活を整える言葉、自分を振り返る言葉が必要だと。規則を作り、その規則を守れないものが現れると、その者たちのために規則を作り、またそれでも守れない者が出てくれば、規則を増やしていく。規則が膨大になり、規則で縛られる現実が起こっていた。何故、規則を作っていったのか。神様を守るため。それがいつしか規則を作る自分が世界を守る者と思い始めた。自分たちが頑張る。私が頑張る。私が世界を作る。パウロ達は経験した。規則がなくても人はちゃんとしている。この世界は誰が造っているのか。規則ではない。人ではない。私ではない。この世界は誰が造るのか。神が造っている。異邦人伝道でパウロ達が見つけたもの。当たり前のことを見つけた。神がこの世界を造っている。規則を作る。規則を守る。大切なこと。大切に思うが故、忘れてしまっていくものがある。神を忘れていく。自分、人ばかりしか見えなくなる。信じる。任せる。委ねる。そこから始まらないと世界は形になっていかない。

6月29日 主日礼拝

6月29日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 14章21~28節幸せとは何か。聖書は幸せについて語っている。パウロは「偶像」と戦った。「偶像」偽物。ただ偶像を拝んでいるものにとってはそれは本物の神様。偶像はなぜ生まれるのか。エデンの園ですべてを持っていた人間。神に良しとされた人間。蛇に囁かれる。「お前には足りないものがある」「お前はダメだ」と。その結果、自分の不足を補おうと「善悪の知識の木の実」にしがみつく。善悪の知識の木の実。偶像になる。偶像。形を変えて現れる。点数、他人の評価、富、武器、規則、前例・・・・偶像。人が作り出したもの。本当の神。握りしめろとは言っていない。大丈夫だから、何も持つな、何も貼り付けるなと言っている。偶像。これを作る人の心にあるもの。不足、自己否定、怯え。パウロは教会の者を励ます。「多くの苦しみを経る」と。苦しみとは何か。怯えていないから苦しみを味わう。怯えていればすぐに何かにしがみつく。自分を預け、自分を失う。その者に苦しみなど経験できるはずがない。苦しみ。怯えていないもの。偽物でない、本当の自分を生きるものだけが経験すること。苦しみを経たものはどうなるのか。パウロが語っている。私たちの言葉が異邦人に通用したと。怯えていないものの言葉。本当の自分を生きている者の言葉。超えていく。どこまでも進んでいく。遠くまで行ける。幸せとは何か。怯えないで生きる。依存、支配の中に身をゆだねない。自由。幸せとは何か。遠くまで行ける。どこまでも行ける。自由。聖書は幸せについて語っている。

6月22日 主日礼拝

6月22日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録14章8〜20節偶像と神の違いは何か。正しい信仰と間違った信じ方の違いは何か。パウロの奇跡を目の当たりにしたリストラの人々。パウロを神だと言う。なぜ「神」だと言ったのか。人にできるはずのないことをしたから。奇跡を起こしたから。人には「できること」と「できないこと」がある。それがリストラの人々の世界観。これに対し、パウロは言う。「自分たちはただの人間だ」「あなたたちは偶像を拝んでいる」人とは何か。創世記の物語は告げている。神に似ているもの。神の命をいただいているもの。神に「これで良い」と言われているもの。人は完成している。できないものは何もない。奇跡パウロにとってはそれは奇跡でもなんでもない。当たり前に人ができること。自分にできること。誰にだってできること。リストラの人々、ことによると私たちも、なぜ人には「できること」と「できないこと」があると思っているのか。創世記の蛇のセリフ。お前には足りないものがある。お前は不十分。お前には「できること」「できないこと」がある。蛇の言葉に唆され、それが本当だと信じている。自分が不十分だと思うものは何をするのか。善悪の知識の木の実を食べる。自分の足りないものを補う。自分以外のもので自分を補強する。自分以外の頼りになるもの、力になるもの、それにしがみつき、握りしめ、執着、固執する。人が頼りにし、依存し、執着するもの。それが偶像。神とは何か。世界に何も欠けたものをお造りにならなかった方。世界を完璧に仕上げ、良しとされた方。信仰とは何か。世界は完璧何も不足していない。できる、できないがないところ。全部が良い。それを信じる。神を信じる。そこには偶像など入り込む隙間はない。だがこの世界は偶像で溢れかえっている。数字、常識、規則、予測、計画これがあればあなたの足りないもの、不安を補えると。現代にある「善悪の知識の木の実」「偶像」我らは今週、それらとどう向き合うのか。

6月15日  三位一体主日礼拝

6月15日 三位一体主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 14章1〜7節パウロの伝道旅行。会堂でなされる律法解釈。パウロはイエスの言葉、行動を通して解釈を行う。それを喜んだもの、不快に感じるもの。分かれていく。なぜ、別れるのか。パウロは妨害に遭う。批判、非難の言葉。時に暴力にもふるわれる。それでもパウロはやめない。なぜ、続けるのか。なぜ、別れたのか。なぜ、続きたのか。おそらく答えは同じところに根ざしている。パウロがイエスを宣べ伝えるとなった時、彼に起こった出来事。目から鱗のようなものが落ちた。自分に張り付いていたものが剥がれた。自分以外のものが剥がれ落ちた。見えるようになった。自分だけになった時に見えるようになった。鱗、それはアダムとエバが食した善悪の知識の木の実と同じもの。全てが与えられていたアダムとエバの生活。彼らは神に似せて造られた、神とそっくりのもの。その彼らに向かって蛇が囁く。「お前には足りないものがる」アダムとエバはコロッと騙される。足りないから、不足しているから、自分を補おう。自分以外のものを自分に貼り付けて自分を補おう。善悪の知識の木の実。なくても良いものを自分に貼り付けた。目から鱗。パウロはこれが自分だと思っていたものが、自分に貼り付けたもので出来上がっていた本当の自分でないものを自分だと思い込んでいた。そこに気付く。自分以外のものが自分から剥がれ落ちた。本当の自分が見える。自分のしたいことが見える。非難の言葉。暴力。全て自分以外のもの。そのようなものにもはや心を奪われない。自分だけで勝負をする。それが一番、気持ちがよく、一番楽しい。なぜパウロは続けられたのか。楽しいから。なぜパウロの言葉を理解できないものがいるのか。善悪の知識の木の実、これを食した時に人に起こったこと。食べる前、アダムは女性を見て「これこそ私の骨の骨肉の肉」と言った。私の骨がそこにある。私の肉がそこにある。目の前の女性。それは私だ、私と同じだ。善悪の知識の木の実、これを食べた後のアダムの言葉。「あの女がたべろと言ったから食べた」原因は私ではない。私は被害者。主犯は別にいる。あの女と私は違う。自分に何かを貼り付ける。自分の形が変わっている。私でなくなっていく。ゆえに、私と同じだったものから遠ざかっていく。あの女と私は違う。自分には足りないものがある。自分以外のもので自分を補おう。違う自分になって行こう。あの者と私は違う。それが今のイスラエルとイランの間で怒っていること。自分でないものを貼り付ける。自分と相手とがどんどん遠ざかる。パウロはなぜ伝道を続けられたのか。なぜ、人々はパウロの言葉を否定したのか。善悪の知識の木の実の捉え方で生まれたこと。自分は不足している者だと思うのか。自分には全てが備わっていると自分を信じるのか。パウロが伝道を続けられた理由。それが本当の自分の生き方だと思えたから。自分を生きることが楽しかったから。なぜ、人々はパウロの言葉を受け入れられないのか。自分以外のものが自分に張り付いているから。見るべきものが見えていない。自分には足りないものがある、という歌が今や世界中で大合唱を始めようとしている。どうすれば平和を作ることができるのか。自分を信じること。神の約束を信じること。足りないものは何もない。心、整え未来を築く。