本多記念教会

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5月11日 主日礼拝・母の日

5月11日主日礼拝・母の日礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録12章1〜19節ペテロは捕らえられる。牢に入れられるが、天使の助けによって、そこを出る。仲間のもとに帰るが信じてもらえない。扉の外で声を上げる。ペテロの声を聞いた女性。弟子たちに扉の外にペテロがいると告げる。だが誰も信じない。イエスの復活と同じ構造。出てこられるはずのないところから出てくる。それを女性が支えるが、弟子達はそれを信じない。表面の登場人物は異なるが構造は同じ。同じ構造がなぜ繰り返されるのか。復活物語は一度だけのものではない。過去のものではない。これまでも起こっている。これからも起こっている。今も起こっている。物語の登場人物達。イエスの復活が、ペテロの帰還が信じられない。闇に飲み込まれたもの。それが帰ってくるとは信じられない。私たちも同じ。どうしてか。闇が世界の支配者だと思っている。闇に飲み込まれたら、そこから出る事はできないと思っている。それが本当の世界か。聖書が示す世界とそれは違う。神が造った世界。光あふれ、良いとされている世界。闇は支配などしてはいない。今日は母の日。誰しもが母から生まれてきた。時間に限りがあるにせよ、母は生まれてきた者を「良い」者として受け入れている。私たちは「良い」から始まっている。世界も、私たちも同じ。「良い」で始まっている。「愛」で始まっている。闇からの始まりではない。良いからの始まり。そこが人の、私の、世界のあるところ。復活は一度だけの物語ではない。これまでも、これからも、今もある物語。良いが愛が世界を造っていく物語。それは私の物語。

5月4日 主日礼拝

5月4日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書24章36~53節復活後のイエスが弟子たちに告げたこと。「悔い改め」が与えられる。悔い改めとは何か。反省と何が違うのか。同じなのか。反省。法に照らして違うことをした時に求められるもの。人に害を与えてた時に、必要とされるもの。反省。自分でないもの。他者が基準になって生み出されるもの。悔い改め。他者と関係なく、自らの内に生まれるもの。それはどういうことか。アダムとエバの物語。人は蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べてしまう。ここに人の在り方が語られている。蛇と対峙した時に人は何をしたのか。神から言われた言葉を人は知っていた。蛇から言われた言葉も耳に入っている。人がもし、単純は機械仕掛けの操り人形のように神に造られていたとしたら、ただ、神の言いなりになる存在であったかもしれない。神の言葉も聞き、蛇の言葉も聞き、結果、神に言葉に背くことになる。この時、人は何をしていたのか。人はどういう能力を持って造られた存在なのか。神の言葉を聞き、蛇の言葉を聞き、ここで人がしたこと。考えている。人はどういう存在か?考える者として造られている。考える。言葉を止めないこと。言葉が止まった時、何が生まれるのか。「答え」が生まれる。嵐にあった時、弟子たちは「もうおしまいだ」と言葉を止めた。それが答えだと思った。足に不自由な者、目の見えない者、生まれつき。誰しもが思う。それが答えだと。そこから言葉を紡ぎ出そうとはしない。病の末に命を失った者。「死」そこから何を考えることができるのか。それが答え。どんな言葉も不要と誰もが判断する。嵐に出会った時にイエスは嵐に向かって言葉を発する。「静まれ、黙れ」と。病んでいるものに向かってイエスは言葉を発する。「立て」と。死んだものに向かって言葉を発する。「出てこい」と。誰しもが先の言葉がない。どんな言葉も無駄だと思っている時にイエスは言葉を発する。「答え」の前で言葉を捨てていない。考えている。問うている。その先の言葉を生み出している。悔い改めとは何か。言葉を止めないこと。「これが私」「これが正しい」それを答えにして、言葉を止めない。問う。考える。自分に問いかける。自分に挑戦をする。それを悔い改めと言う。復活のイエスが「悔い改め」が、この世界に与えられたと言う。復活。変わらない。続くこと。「悔い改め」問う。考える。自らに挑戦をする。変わらない。続くこと。続けながら、人は真の世界、神の造った世界に出会っていく。真の自分に出会っていく。悔い改め。人に与えられた神からの恵み。その恵みを人は味わっているのか。私は悔い改めているのか。

4月27日 主日礼拝

4月27日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書24章1~12節神を知るとはどういうことか。神を信じるとはどういうことか。エルサレムからエマオに向かう二人の弟子。そこにイエスが同行する。だが、彼らはイエスだとは分からない。イエスと話をしてから夕食の時。イエスがパンを裂く。その時、彼らはそれがイエスだと気がつく。と、同時にイエスの姿が見えなくなる。イエスの姿が見えなくなった後、彼らは振り返る。「道であの人と話をしていた時、心が燃えていたではないか」神を知る。神を信じる。神を。「を」がついている。「を」、目的格、客体を表す「を」すなわち、主体である「自分」「私」の外にいるもの。エマオの物語。イエスを見ていた時、イエスと話をしていた時、彼らはイエスが分からなかった。イエスが分かった時、イエスが見えなくなった。そして「自分たちの心が燃えていた」ことを確認する。彼らはイエスをどこで分かっているのか。自分たちの経験、記憶、内省して、イエスを分かっている。外にイエスがいた時はイエスを分かっていない。イエスが分かったきっかけ。イエスがパンを裂く。最後の夜の食卓の風景。聖餐式の起源となったもの。イエスはパンを自分の体だと言い、ぶどう酒を自分の血だと言う。パンとぶどう酒、これはどうなったのか。その後、どこに行ったのか。食べられ、飲まれた。弟子たちの体の中に入っていった。外にあるのではない。中に入っていく。神を知る。外にある客体の神を観察しようとしても本当には神を知ることはできない。主体である私を見る。私を探る。神に似せて人は造られた。神の息吹を吹き入れられて人は誕生した。この命は神がいる故、神に由来してある命。イエスだと分かった時、イエスが見えなくなった。どこかに行ったのではない。見えない。人は自分は見えない。私になった。人は神の命を生きるもの。世界の全てが良いと言った神の命を生きる。ここが不足、あれが不満。それは神の命を生きてはいない。本当の私を生きていない。この命が神の命であるならば何も恐れるものはない。終わらないもの、永遠の命を私たちは生きている。身体、心、それが朽ちたとしても朽ちないものがある。それが命。全てが良いと思えるか。全てが私の中にあると思えるか。「私」が全てを決めていく。

4月20日 イースター礼拝

4月20日イースター礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書24章1~12節イエスが十字架で息を引き取ってから三日目。婦人たちが香料を持って墓に向かう。墓を塞いであった石が移動され、遺体がどこにも見受けられない。途方に暮れている婦人たちの前に輝く衣を着た二人の天使が現れる。「死者の中にイエスを探しても見つからない。イエスは復活した。かつてガラテヤで言われた言葉を思い出せ。人の子は十字架につけられ三日目に復活する、と」婦人たちは見聞きしたことを使徒たちに伝えたが、彼らは信じなかった。ただ、ペテロだけが、墓に走り、空の墓を確かめた。復活とは何か。イエスの周囲で起こったことをもう一度見直してみる。イエスがエルサレムに入城する。人々は大歓迎で迎える。その人々はピラトの裁判の時に「十字架につけろ」と騒ぎ立てる。彼らを扇動した祭司、律法学者たち。もともとはイエスの言葉に興味を持っていた。だが、彼らの持っていた言葉は神様の褒められるように律法を守ろう。律法を守らなければ神様に叱られる。神様は私たちの態度に連動してその態度を還る方。だから注意しろ、だった。これに対してイエスの語った神様は神は私たちが何をしても変わらない。変わらず、私たちを愛してる、だった。最初、イエスに好意的だった祭司、律法学者も言葉の違いから段々とイエスへの態度を変えていく。イエスの弟子たち。何があってもイエス様に着いて行くと言っておきながら、イエスが捕らえられると、逃げ出し、呪いの言葉さえ口にする。裁判を司ったピラト。イエスを釈放しようと思ったが、群衆が怖くなり、その考えを翻してイエスを彼らに預ける。イエスの周辺で起こっていること。人々が変わっていく。変化していく。私たちが日常に聞いている言葉はどうか?これをすれば成功する、幸せになれる。それをしたら取り返しのつかないことになる。子どもの点数から、大人の経済、権力に至るまで、世界は変わるが前提になって語られている。世界は変わるのか。変わるが世界の基底にあるものなのか。天使が婦人たちに言う。イエスの言葉を思い出せ、と。その言葉が、今、ここで起こっている。その言葉は変わっていない。イエス・キリストの復活。生きているから死に移行する。人は必ず変わるを背負わなければならないと私たちは思っている。復活。変わらない。生きていると変わらない。永遠の命。世界の基底は「変わらない」変わるもの、動くもの。動くから目立つし、気にもなる。そこに「在る」がはっきりする。だから、意識も向くし、心も奪われる。変わらない。動かない。目立たない。あるのか、ないのかすら分からない。目立たない故、人によっては「ない」とすら言いだす。変わらないもの。動かないもの。変化がないのだから途中発生のものではない。初めからあるもの。神が世界を造った。それは極めて良かった。世界は良い。それが初めからあるもの。それは私たちも同じ。私の中で変わるもの。それは本当の私ではない。変わらないもの。初めからあるもの。それが本当の私。その「私」を探し、「私」に出会う。本当の私を生きる。本当の世界を生きる。変わらないもの信じ、求める。必ず出会える。

4月13日 主日礼拝

4月13日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書23章44~56節世界はどこに向かっているのか。誰に不利益を与えたわけでもない。罪を犯したわけでもない。裁判にかけられるいわれはない。それでも判決は死刑。法廷を司ったピラトでさえ、この裁判の違法性には気が付いていた。それでもそれを止められない。正義はどこにあるのか。秩序はどこにあるのか。無法、感情、本来社会性のないものが社会の流れを決めていく。世界はどこに向かっているのか。闇に向かっている。崩壊に向かっている。それは物理の世界でも決まっていること。誰もが避けらないないこと。この世界は良い。神の約束から世界は始まっていたはず。にもかかわらず、世界は悪くなっている。神の約束と世界、この関係をどう考えれば良いのか。十字架上でのイエスの最後の言葉。「父よ、私の霊を御手に委ねます」これは絶望の言葉か、諦めの言葉か。その他の解釈はあるのか。絶対的な闇と直面した時、人はどう振舞うか。私たちはその時、どうするか。闇と戦う。勝ち目はない。あきらめるか、絶望を抱いて闇に飲み込まれるか。イエスは戦っていない。力を込めて生きていない。何もしない。最後の言葉は「私の霊を御手に委ねます」握りしめていない。自分自身を自分で握りしめていない。なぜ、自分を守らないのか。諦めているからか?信じているからではないのか。自分で自分を守らなくとも、この世界ならば大丈夫。世界を信じているからではないのか。この世界は良い神の約束を信じているからではないのか。すべてを手放す。すべてを委ねる。命さえも委ねる。自分が守らなければならない自分のものは何もない。世界はどこに向かっているのか。闇に向かっている。その闇と直面した時、人は何をすれば良いのか。闇が覆っていても世界を良いものと信じる。良いものと信じているからこそすべてを世界に委ねる。委ねたものに何が起こるのか。次週のイースター礼拝で確認をする。

4月6日 主日礼拝

4月6日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書23章26~43節「神の子なら、自分を救ったらどうだ」十字架にかかるイエスに向かって人々は侮辱する。生涯の最後に浴びせられる言葉。これと同じ言葉をイエスは公の生涯の始まりにも直面している。荒れ野での40日間の断食。その後、試みる者がやって来てイエスに囁く。荒れ野の誘惑。お前が神の子なら石をパンに変えて食べろ。自分のために自分の力を使え。自分を自分で守れ。自分のために生きろ。イエスは生涯、この言葉、誘惑と直面していたのではないか。自分の力を自分のために使え。イエスはこれを拒絶する。なぜか。物語上は「神」を大切にするとなっている。ただ「神」と考えると、私たちの生活と乖離してしまう。礼拝の日曜日とそれ以外の日が離れてしまっているのと同じことが起こる。「神」これをおおよそ大切なものと置き換えてみる。正義、真理、平和、愛、美。おおよそ大切なもの。おおよそ正しいもの。私たちはこの大切なもの、正しいもの、が実現してほしいと願っている。これを実現するためにどうしたら良いのか。私たちはその答えをすぐに出せる。がんばれば良い。私が、がんばれば良い。私が、がんばらなければならない。自分の力を自分の信じるもののために使う。荒れ野で誘惑での悪魔とイエス。悪魔はがんばれと言う。自分の力を発揮しろと言う。イエスはこの悪魔の誘惑を退ける。反発をするのではない。別の方法を実行するのではない。何もしない。自分では何もしないと言い切り、それを実行する。十字架の赴くイエス。神の子なら自分を救え、と人々から揶揄される。イエスは何もしない。何もしないことで「神」を表そうとしている。一番大切な自分の命。これを自分の力で守ろうとしない。十字架にかかり、命を落とす。何もしない結果、大切なものを失った。十字架から三日目。イエスは墓穴から出てきた。命、永遠の命が返ってきた。私たちは勘違いをしているのかもしれません。大切なものは自分たちの力で獲得しなければと。ただ、歴史の中で大切なものが実現したことはありません。その原因はがんばっているからかもしれません。私たちが何もしない。この世界を信頼する。神を信じる。この世界は良きところと信じる。何もしない。ことによるとおおよそ大切なもの、良いもの正義、真理、愛、平和、美それが返ってくるかもしれません。何もしないことで達成されるものがある。私の限られた生涯の中で一度試してみる価値はあるのかもしれません。

3月30日 主日礼拝

3月30日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書23章13~25節イエスは何を信じていたのか。信じるとは何か。神の子イエス。イエスには信仰は存在しないとの考えもある。肉体を持っているイエス。私たちが持っているもの、それはすべて持っているとの前提で考えてみたい。理不尽な裁判。罪が立証されないままに進められる。ローマの総督ピラトのもとにイエスは送られてくる。群衆から死刑に値するとの申し出がされる。ピラトはその気になってイエスを取り調べる。だが、なんの証拠も出てこない。死刑の判決を下すわけにはいかない。ピラトはその判決を下す。イエスを釈放しろと。群衆は納得しない。騒動になりかけたところでピラトが妥協する。イエスを彼らの手に委ねる。イエスは黙っている。正義が履行されないところで黙っている。この世界はどういうところか。創世記の物語。神が世界を造る。その時、神はこの世界を見て「良し」という。世界は良い。それが聖書の世界観。イエスが味わっていること。不条理、理不尽。正義が行われない、悪が支配するところ。世界は良いのか。世界は良くない。イエスはなぜ黙っているのか。イエスは何を信じているのか。イエスの死を願っている群衆。この者たちが世界を支配し、未来を手中に収めているのなら、イエスは戦ったことであろう。黙っている。なぜ、黙っているのか。彼らには未来は作れない。この者たちが世界を造っていくのではない。命が狙われている恐怖はある。未来に関係のないものに心奪われる必要はない。イエスは何を信じていたのか。信じるとは何か。誰が未来を造るのか。未来を造る方を信じている。本物を信じている。信じるとは何か。命をかけられる。命に値する。信じる。命がけになれること。

3月23日 主日礼拝

3月23日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師受難節第三主日ルカによる福音書22章47~53節イエスを捕えるために群衆がやって来る。祭司長、律法学者、時の権力者たちもその中にいる。その先頭に立っているのがイスカリオテのユダ。ユダがイエスに接吻をしようと近づいてくる。「接吻で裏切るのか」とイエスは問う。ユダとは何者か。表と裏がある。イエスの弟子でありながら、イエスの命を狙う。会計をごまかして、畑を購入する。二つの自分、複数の自分を使い分ける。分裂している人格。誰しもに心当たりのあること。ユダの振る舞いは決して珍しいことではない。だが、それが人のあり方か?イエスは祈る。自分と神が離れていることその距離を近づけようと祈る。血のような汗を流す。捕えようとする群衆。イエスの弟子の一人が切るつける。直面している現実が自分たちの受け入れられるものではない意志の表れ。それをイエスはいさめる。この現実を受け入れていく。どのような現実であろうが、それを受け入れていく。何故か。神がこの世界を造っていると思っているから。この世界にあるものはすべて神のものだと思っているから。神は私とは違う。違うのだから私にわかるはずがない。私が分かることだけ行っていくのなら、それは私の世界の中を巡回するだけ。ユダは二つに自分を使い分けた。もう一つの自分。なぜ必要なのか。自分で世界を設計したから。この自分だけではダメで、もう一人の自分が必要と考えた。私が世界を知っていると思えば、幾人もの私が必要になってくる。私が設えた私必要なのか。私が作った私は他者としてすでに存在していないのか。いるだろう。なぜ、その者に委ねないのか。なぜ他者に任せないのか。なぜ他者を、世界を信じないのか。神に委ねる。神を信じる。世界と、神とひとつになる。それは自分を失うことではない。神の思い。私の使命。本当の私と出会うこと。私が私を知ること。私を知ったら何が起こるのか。イースターの朝に起こったこと。私は何にも支配されていない。何にも怯えず、恐れず、私のするべきこと神から与えられた使命をただまっとうすること。私が一番なりたい私になればいい。受難節に信じたいこと。

3月16日 主日礼拝

3月16日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書22章39~46節十字架にかかる前の夜。最後の夜。イエスは祈る。盃を取り除いてほしい。しかし、神の御心がなりますように、と。その時、弟子たちに告げる。誘惑におちいるなと。イエスの生涯最初と最後、「誘惑」と直面している。誘惑とは何か。公生涯のはじめ悪魔の誘惑を受ける。命の危険のある時に悪魔は囁く。石をパンに変えて食べればいいだろう。イエスの答え。人はパンだけで生きるのではない、神の言葉で生きる。神殿の屋根に立たせ、飛び降りろ。お前が頼りにしている神が本当に自分を大切にしてくれるか確認をしろ。イエスは答える。神を試すようなことはしない、と。世界の栄華を見せて悪魔は迫る。私のひれ伏せ。この世界をお前に与える。イエスはそれを退ける。誘惑とは何か。自分を中心にしろ。イエスは自分を中心にしない。神を思い出す。神を優先させる。神を優先させるとはどういうことか。なぜ、人は自分を中心にしたいのか。世界が怖い。世界を信用できない。他者が、世界が信用できなければ、自分を信じるしかない。世界が信用できないとはどういうことか。神はこの世界を造った。そしてこの世界を見て「良し」と言われた。世界が信用できない。それは神を信用できない。神を信じていないこと。イエスは自分ではなく、神の御心を優先した。世界を信じているから。世界が良いと信じていた。これから起こること。自分を中心にすれば怖いこと。避けたいこと。だが、信じていく。これから起こること。良いことが起こる。信じる。受難節イエスの十字架の道のりを覚える季節。私は世界を信じているのか。。

3月9日 主日礼拝

3月9日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師受難節神と人の乖離それが何かどうして起こったのか自らを問う季節。ルカによる福音書20章20~26節人はなぜ答えを欲しがるのか。イエスに答えを要求する。ローマ皇帝に税金を納めることは律法にかなっているのか。ユダヤの律法によれば、異邦人と関わること。皇帝に納税することは律法違反。他方、納税をしないことは支配者に歯向かうこと。常識違反。どちらの答えが正しいのか。人はなぜ答えを欲しがるのか。答えとは何か。未来につながるもの。幸福につながるもの。答えを手にすれば次に行ける。新しい地平につながる、次に進める確かなもの。答えは入口、未来への門。人類が最初に手にした「答え」善悪の知識の木の実。これを食べると神のようになれる。次に行ける。もっといいものになれる。人が善悪の知識の木の実を手にした時、食べた時人は何をしていたのか。何を忘れていたのか。神を忘れていた。神を信じなくなっていた。神この世界を造ったものこの世界を見て、この世界は「良い」といったものこの世界を良いものとした方。人はなぜ答えを欲しがるのか。この世界は悪いと思っている。ここから次に行かなければならないと思っている。門、入口、答えそこを通らなければ幸せに、「良い」に出会えないと思っている。税金の問いに対してイエスは答える。カエサルのものはカエサルに。神のものは神に。問いで返している。決めるのはあなただと。しかし、それは無責任な答えではない。決めてみろ。それを実行してみろ。ローマに納税しようが、神殿に献金しようがどちらでもいい。どちらを選んでも、良い。この世界は良いのだから。神が造ったのは、ある民族、ある価値観ではない。ユダヤも、ローマもみんな神が造った。どこにいてもどちらに行ってもすべては良い。人はなぜ答えを欲しがるのか。神、世界それを忘れているから。答えなどいらない。神を信じる。私のするべきことしたいことが見えてくる。それが神が私に託しているもの。答え私が私を生きること。

3月2日 主日礼拝

3月2日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 11章19~30節世界はどのようにできているのか。迫害に遭う。自分の信じるもの。自分が正しいと思うもの。それは自分だけに分かる言葉。それ故に人には分からない。人には間違った言葉に聞こえる。あなたは地の塩、世の光。人と違うもの。自分の塩、光に気が付いても、それを塩のままに持っているものはいない。どこにでもある砂にする。味を捨てて砂になる。自分の光。人と違う。それゆえ光を隠す。机の下に隠して光を消して皆と同じになる。闇になる。塩を持つもの。光を放つもの。迫害される。初代の教会。彼らも迫害をされた。迫害をされ散り散りに逃げて行った。それでも言葉を捨てないものたちがいた。アンティオケアでその言葉は受け入れ出していた。これを知ったエルサレムの教会のもの。アンティオケアに人を派遣する。バルナバ。教会の信頼を得ているもの。アンティオケアの人々を励ますため。教会を確立するためバルナバを派遣する。この任に当ったバルナバは一人の人物を探す。他者の言葉に晒されても、自分を見失わないもの。自分の塩、光を捨てないもの。かつてユダヤ教の指導者としてその責務に忠実であったが、神を求めるうちにユダヤ教の語る「神」がこの世のものと変わらぬものと気が付いていった。功績をあげれば褒めてくれて、失敗をすれば怒りを表す神。原因と結果の因果律があるもの。取引が成立するもの。それが神か?神ではあるまい。神は何も変わらない。人が何をしでかそうが、しなかろうが何も変わらない。変わらず人を愛し、世界を良きものとしている。広く大きい。イエスとの出会いにより、神の大きさに気が付いた者。神を求め続ける。その生き方を変えない。ユダヤ教を批判し、命を狙われ教会の者にも受け入れられない孤立した者。それでも自らの信じるもの、真理と思えるものそれを決して捨て去らない。人に迎合して自分をあきらめない。塩、光を失っていないもの。バルナバはその者を探した。サウロ。バルナバはサウロを連れてアンティオケアに行く。迫害の中で、避難、批判の中で自分を失わない者。サウロが必要だった。教会は自分を明け渡さない者、その者たちの働きでできている。教会の話ではない。世界も同じ。世界は自分を信じるもので、できている。自分だけが持っている塩、光神が必要だから与えたもの。それをもし捨て去るのなら、それは世界から失われていく。世界に必要なものがなくなっていく。私の信じるもの。私だけが持っているもの。それが世界を造っていく。私が世界を造っていく。

2月23日 主日礼拝

2月23日主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 11章1~18節平和を実現する。どのようにすればできるのか。使徒言行録の物語。ユダヤ人と異邦人の間に関係が生まれる。迫害をしているものと迫害をされていたもの間に関係が生まれる。物語には一つの構造がある。神が語りかけている。対立する両者、それぞれに神が語りかけている。そして境界線の向こう側にいるもの。敵そこに行けと神が語りかけている。彼らは一様に拒む。境界線の向こう側、そこに行ってどうなるのか。そこに行っても何も生まれない。彼らは拒む。だが、それでも神はそこに行けと言う。その言葉に従い、境界線の向こう側に出向いていく。するとそこで関係が、交流が生まれるのがこの物語の形。この形は何を読者に告げているのか。私たちは「情報」を対話の題材、主題としてきた。「情報」これまでに積み重ねられてきたもの。功罪、歴史、印象。あの人はこんなひどいことをしてきた。あの人はこんな業績がある。「情報」を材料を元に対話をしてきた。「情報」を元に対話、交渉、時に平和への入口を探してきた。使徒言行録に登場する「彼ら」もそれは同じ。異邦人、こんな人。サウロ、こんな人。だから彼らとは相いれないと。だが、神はそれを押し切り、とにかく行け、と言う。サウロの所に出かけて行ったアナニヤ。異邦人の所へ出かけて行ったペテロ。彼らはただ神の言葉、神からの約束を信じて出かけて行った。その約束は向こう側のものにも与えられていた。向こう側のもの、その者も神の言葉を、神の約束を持っている。境界線をまたいで歩み寄る両者彼らの頼り、彼らの共通項は「神の約束」神の約束とは何か。神から与えられた使命、賜物。私だけが知っている、私だけが信じている「本当の私」。私たちはこの「本当の私」を捨て去る。自分の業績、人からの評価「情報」で「本当の私」を塗りつぶし、いつしか「情報」が本当の私と思い込む。情報のすり合わせ、情報の交換では何も生まれない。平和は実現できない。「本当の私」を取り戻す。「本当の私」で出かけて行く。「本当の私」が向こう側の「本当の私」に語りかける。情報の品評会ではない。魂と魂が直面する。本当の私と本当の私が向き合う。使徒言行録はその時、異なるものの間に、敵同士の間に関係が生まれたと語る。平和はどのように実現されるのか。「本当の私」と「本当の私」が出会う時に生まれる。この物語は本当なのか?「本当の私」はこの物語をどう読むのか