12月7日 主日礼拝12月7日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書1章26~38節ルカが記すクリスマスの物語。イエスの誕生、洗礼者ヨハネの誕生がセットで語られる。ヨハネの誕生、天使ガブリエルがザカリアの所に来て知らせる。「男の子が生まれる」と。歳のいったザカリア。「年寄りの夫婦に子供が生まれるはずはない」もう遅い。イエスの誕生、天使ガブリエルがマリアの所に来て知らせる。「男の子が生まれる」と。「わたしはまだ結婚をしていないのに」まだ早い。もう遅い。まだ早い。ここに共通しているもの今ではない。今は違う。今の否定。創造神話で善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバ。自分には足りないものがある。自分が不十分。今の私ではダメ。今の否定。人は過去も未来も生きられない。それは分かっていながら過去と未来に引っ張られる。過去と未来から今を考えようとする。人は他者になることはできない。それは分かっていながら他者の言動に引っ張られる。できないことをしようとしている。ガブリエルが告げたこと。今は過去と未来と関係ない。今は今でしかない。過去でも、未来でもない今。そこを生きろ。私が生きられるところはどこなのか。今、私。そこしかない。そこしかないが、そこは過去でも未来でも達成できないものが宿るところ。過去や未来にはないものがあるところ。すべてがあることろ。今、私。どうやったら生きられるのか。マリアの態度。「信じます」信じる。今、私を信じる。神が与えた自分ができることを信じる。出来ることを信じて行う。クリスマスはそうやって始まった。2025.12.12 09:22
11月30日 主日礼拝11月30日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師マタイによる福音書 1章18~25節予定通りにならない。ヨセフが経験したこと。マリアと結婚をする。家庭、家族を作る。予定があった。ところがその予定が全て崩れ去る。自分の知らないところでマリアが妊娠をしている。別れることを決心する。予定が崩れた。私たちはなんのために予定を作るのか。点数を取ること。仕事を進めること。予定と共に進めていく。なんのために予定を立てるのか。予定とは何か。予定は幸せになるため。その予定が順調に進められれば、予定通りになれば幸せが近づいてくる。予定が崩れる。幸せが遠のいていく。予定が崩れたヨセフが夢を見る。天使の言葉を聞く。「マリアの胎の子は聖霊による。生まれてくる子は民を罪から救う神が我らと共にいる」この言葉を信じてヨセフはマリアと家族になる。罪とは何か。救いとは何か。罪。予定と結果が分かち難く結びついていると頑なになること。執着、固執。善悪の知識の木の実。これを食べなければならない、と固執する。執着、固執。それが罪。神が共にいる。私が、誰かが制定した予定。人が作った予定など、その通りにならなくとも大丈夫。神が共にいる。予定は単なる空想の時間の過ごし方。それが行われようが、行われなかろうが、神が共にいる、ならば行くべきところにはちゃんと行ける。私がしなければならないと思っていること。したいと思っていること。それは予定通りでなくともちゃんと行ける。人の予定、私の予定、社会の予定それがもし崩れても、神の守りは変わらない。「世界が良い」は変わらない。予定はそんなに大事か。今年のクリスマスの準備として心に問いたいこと。2025.12.01 08:19
11月23日 主日礼拝11月23日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録20章25〜38節パウロが伝えてきたこと。神の国。人の言葉、想像力では及ばないもの。神の国仮の表現。その内容は誰にも分からない。表現という「手段」。それは必ず「内容」という「目的」を指示している。「手段」と「目的」神の国それはキリスト教の表現様式、手段にしか過ぎない。他宗教、科学、芸術、その他の指向も同じ目的を目指しているのかもしれない。パウロは当初、手段と目的の区別がなかった。神の国という目的は律法を守ることでしかたどり着けないと。目的は規定路線しかないと思っていた。ところが、イエスは律法は手段だと言った。どこからでも行ける。他からでも行ける。律法を守るしかないと信じ込んでいたパウロは律法に縛られていたことに気付く。律法だけでない。他にもある。いくつもある。自由になれる。救われた。パウロはイエスを救い主と呼ぶ。手段はいくつもある。目的に辿り着くためには「手段」への執着を捨てること。律法、この世の権威、経済これらに対してはどちらでも良いと執着が生まれない心構えで対応することはできる。ならば「命」はどうか。パウロはエルサレムに行く。命の危険があるエルサレム。死にたいわけではない。「命」それすらも「手段」に過ぎない。目的が執着を解き放たなくては行けないところであるならば手段を固定化しない、命を絶対化しない。人の想像ではたどり着けない神の国そこに行く絶対の方法などない。ならばこの世に絶対はない。神が語った「この世界は良い」良いを信じ、必ず出会えると信じ、私が信じる道を歩む。神の国「信じる」が導いてくれるところ。2025.12.01 08:17
11月16日 主日礼拝11月16日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録20章17〜24節100点を取る。経済力をつける。私たちが正しいと言っていること。質問。それは何のためにするのですか。100点、経済力は何かのためです。ならば、それらは「目的」ではありません。「手段」です。律法を守る。イエスは律法を完成すると自ら言いながら、律法で禁止されていることを行いました。律法を大事に思っているのか、軽んじているのか。イエスにとって律法は「手段」です。「目的」は別の所にあります。神の国それがイエスの目的です。何のために100点を取るのか、経済力を身につけるのか?幸福のため。それは確かに目的でしょう。目的が「幸福」ならば、100点、経済力でしか、その目的に到達することはできませんか。そんなことはないことを誰しもが知っています。にもかかわらず私たちは100点と経済力を大切だと思い込んでいます。「目的」に到達するのはこの「手段」しかない。それは「目的」と「手段」が混乱している状態、区別がなくなった状態です。イエスは律法を大切にする。それは律法の目的を大切にしていたから。それでいて律法を無視するかのような行動をする。同じ理由。律法の目的をちゃんと知っていた。それは「律法」は手段にしか過ぎないと分かっていたから。人には神様からいただいた賜物がある。体が部分からなっているように人が同じである必要はないし、同じであってはならない。違いが必要。「目的」に辿り着く「手段」人の数だけある。イエスがかつて殺されたエルサレム。パウロはそこに行こうとする。同じ運命を辿ろうとする。単なる模倣ではない。イエスの思いを継承した証し。手段はいくらでもある。この命もまた「手段」に過ぎない。命という手段を通して実現する「目的」。クリスチャンとはその命の使い方を引き受けるもの。2025.12.01 08:17
11月9日 主日礼拝11月9日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録20章1〜12節ユダヤ・キリスト教は「法」の宗教。「法」を完成する。それがキリスト者の使命。「目的」と「手段」「法」は目的。故にイエスは時に「法」を否定するかの行動を取る。「手段」だから。手段はなんでもいい。目的に辿り着くためには手段に固執しない。イエスには「目的」と「手段」の区別があった。律法学者、ファリサイ派、彼らは律法を「目的」としていた。これさえ守れば良い。その先を見ていない。パウロも当初、律法を目的と考えていたが、後に手段と気がついた者の一人。そのパウロが三階から落ちて亡くなった若者を甦させる。「復活」聖書に何度か復活が登場する。復活は「手段」か「目的」か。復活を単純に考えるならば復活をしたは良いが、その者は自分のこれまでの人生を引き受けなければならない。負債も、執行猶予も引き受けなければならない。復活は「目的」ではない。ならば復活という「手段」は何を目的に据えているのか。「法」という「手段」。ここにも「目的」がある。その目的とは何か。若者を甦らせた後、パウロはパンを裂き、皆に配る。聖餐式を想起させる行動。聖餐式、食べるとは何か。食べる、それは手段。食べるの目的は何か。復活、法、食べる、これらの「手段」は何を目的にしているのか。生きる。それが目的。聖書という物語、これを記した人々、彼らは読者に告げている。「生きよ」作者たちも皆、聞いた。「生きよ」神の言葉。神が世界を造った、その思い。神が世界を造った目的。生きよ。命を肯定し、命を認める。この世界は良い。それを確かめる。生きる。手段であり目的。生きることで命の目的に近づき生きることで命の目的が自らであることを見出す。生きよこの世界が良いものであることを知るために。生きよその命が良きものであることを知るために。生きよあなたは良い。2025.12.01 08:16
11月2日 主日礼拝11月2日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録19章21〜40節私たちは何を信じているのか。何を成し遂げるためにいるのか。パウロは群像崇拝を否定する。その結果、神殿模型を造っている銀細工職人の仕事を奪うことになる。この者たちは怒ってパウロ達を捕えようとする。同様の出来事がかつてもあった。パウロは占い師から悪霊を追い出した。その結果、占いを利用して商売をしているものから、標的にされる。裁判にもかけられずにパウロは投獄される。今回も同様の展開になっている。ただ、今回は仲裁に入った書記官が「法」の手続きを促す。無秩序から秩序「法」への方向性が描かれている。「法」とは何か。人はなぜ法を作ったのか。不均等、不満、公平性の欠如、争い、戦争をなくすため。法が目指しているもの。平和。主イエスは律法を完成するために自分は来た、と言う。法はどのように作られるのか。争いを生み出したもの、混乱を引き起こしたもの。この者たちの特徴。金に執着をしている。何故、金に執着をするのか。世界が怖いと思うから。世界は悪いと思っているから。この者たちが考える「法」は目的になっている。怖い世界で生き残るためにはこの「法」から抜け落ちてはいけない。「法」が目的になっている。イエスは「法」を目的だとは思っていない。手段に過ぎないと思っている。目的はその先にある。手段なのだから、そう変わってもかまわない。律法の完成。それは目的の完成。目的、平和、これを生み出すのに大切なもの。世界が良いと信じること。これを信じるもの。世界が怖い、悪いと思っているものから排除の対象になる。執着を否定されれば悪い世界に飲み込まれてしまう。世界が良いと信じている連中は悪の世界に引きずり込もうとしていると見えてしまう。世界は良いと信じているものは、世界を怖がっている者の標的され、時に命を落す。イエス・キリスト、ペテロ、パウロ、かつての預言者、皆同じ。何を信じ、何を成し遂げようとするのか。理解もされず、迫害される。理不尽に身を置くことになる。たとえそうであっても世界を良いと信じているものは「法」を作る。平和へと導く「法」を作る。信じる。その心が世界を真の世界に導いていく。2025.12.01 08:12
10月26日 主日礼拝10月26日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録19章11〜20節信仰とは何か。魔術師はパウロの奇跡を見て、マネをする。「イエスの名によってお前たちに命じる」悪霊がこれに答える。「イエスのことは知っている。だが、お前は何者だ」結果、魔術師たちは悪霊にひどい目にあわされるという顛末。かつてペテロも同じようなことをしている。足の不自由なものに「イエスの名によって立て」と命じる。その結果、その者は立ち上がる。魔術師とペテロ、表面上は同じこと。それがどうして結果が違うのか。同じように礼拝を守る。同じように仕事をする。それだからと言って同じではない。内容が違うことはいくらでもある。どこに違いがあるのか。物語では聖霊を受ける出来事がこれらの直前に語られている。表面上の回答は聖霊を受けているか、いないか。聖霊を受けたペテロは成功し、受けていない魔術師は失敗をする。ならば聖霊とは何か。聖霊、神の力、神そのもの。人はそれを受ける。神を受けている。神を宿している。悪霊が魔術師に問うた。「お前は何者か」イエスとお前は違うだろう。お前はイエスを借りているだけ。魔術師とイエスは違うもの。神を宿す。信じる。どういうことか。私は何でもできる。ペテロが「イエスの名によって」と語った時、ペテロは信じていた。この人は必ず立てると。イエスはそれをした。私もそれをする。自分とイエスそこに区別はない。信仰とは、自分には出来ないが、神様は出来るでしょう、と神にすがること、甘えることではない。信仰とは何か。神と私ひとつ。そこに向かう心の在り方。2025.12.01 08:07
10月19日 主日礼拝10月19日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録19章1〜10節「神は怖くない」これを言った主イエス、パウロ、皆迫害された。神は怖い。世界は怖い。恐怖が世界の原動力になっていると信じる者たちがいる。怖いから働く。怖いから勉強する。人を見て、人の評価に支配されることが社会だと思うものがいる。そういうものから主イエスもパウロも迫害をされた。妨害、迫害を受けながらもパウロは伝道を続けていった。その結果、アジア州に住む、ユダヤ人、ギリシャ人、すべてのものがパウロの言葉を聞くことになった。遠くまで届く言葉とはどのようなものか。時間を超えて語られる言葉とはどのようなものか。本当の言葉これが遠くまで行く。かつて世界は天空が動き、地面は不動のものと考えられていた。今は地球は丸く自転をし、太陽の周りを回っているとなっている。それが本当だと今は誰もが思っている。コペルニクス、ガリレオ本当を語ったが、否定された。お前は間違っている、と。誰も聞こうとはしない。主イエス、パウロ、彼らの言葉も同じ。お前は間違っている。誰も聞こうとしなかった。だが今や、ガリレオ、コペルニクスの言葉通りにすれば月にロケットを飛ばすことができる。主イエスの言葉、パウロの言葉は2000年の後、東京でも語られている。本当の言葉は遠くまで行く。彼らだからできたのではない。彼らはただ自分が本当だと信じたもの、それを隠さなかった。賜物とは何か。一人一人にそれぞれの賜物が与えられている。賜物、それは、私だけが見つけられる「本当」があるということ。「これが本当」誰もが必ず自分だけがわかる「本当」と出会っている。それが賜物。だが、多くの者は自分の見つけた「本当」を隠す。人が怖いから。その結果、多くの「本当」が地に眠っている。「本当」が現れていない世界。偽物ばかりがあふれている世界。そこでは争いが起きるに決まっている。遠くに行けない言葉、近くにしか通用しない言葉。争いを引き起こす言葉。私が黙っているから、「本当」を埋めてしまったから、争いは終わらない。私が見た「本当」私にしかできないこと私だからできること平和は私が見た「本当」が作っていく。2025.12.01 08:06
10月12日 主日礼拝10月12日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録18章24〜28節アポロ使徒言行録の新しい登場人物。名前から察するにヘレニズムのもの。洗礼についての知識も薄い。ただ、それでも雄弁家であり、会堂でイエスについての言葉を力強く語る。イエス、パウロ、このアポロ。彼らが語ってきた言葉は何か。「神は怖くない」人々は思っていた。「神は怖い」だからその神に叱られないように頑張る。褒められるように努力する。私の成果物で神の評価は変わる。放蕩息子のたとえ話。父親の家から出ていき放蕩に身を持ち崩した弟。家のために勤勉に働いていた兄。この息子たちへの父親の態度。どちらもかわいい。どちらでもいい。成果物など見ていない。その神は怖いのか?怖くない。アポロ、おそらくこの言葉を受け継いだもの。何故ここにアポロが登場しているのか。生まれ、知識、それがパウロ達と同じでなくもいい。ユダヤであろうが、ヘレニズムであろうが、どちらでもいい。この世界は神が造り、その世界を神は見て「良し」と言われた。この世界のすべてのものは良い。伝道、宣教、それはキリスト教の優位性を主張するものではない。哲学、他の宗教、どれでもいい、どちらでもいい。すべては神に良しと言われている。それを語るのが宣教、伝道。アポロが登場する理由。どちらでもいい。その神の造られた世界を表すため。神は怖くない。世界は怖くない。私は信じているか。2025.12.01 08:05
10月5日 主日礼拝10月5日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録18章18〜23節「恐れるな、黙っているな、語り続けよ、私はあなたと共にいる」パウロが聞いた神の言葉。パウロの伝道旅行。向かい風の中で始まった。パウロの言葉を否定するもの。パウロを捕らえては裁判権のある者に引き渡す。パウロの弁明も聞かず鞭打たれ牢獄に入れられる。他の町でも同様なことが繰り返される。コリントの町でも同じことが起こる。ユダヤ人はパウロを捕らえ地方総督ガリオンのところに差し出す。「この男は世間を混乱させようとしている」と主張する。パウロがこれに弁明しようとした矢先、ガリオンが口を開く。そんなことに私は関わるつもりはない、と。逆風の中を歩んできたパウロ伝道旅行の物語を読んでいると、逆風が段々と弱まっていることに気が付く。その極みがこのガリオン。自分は関わるつもりはない。それは裏を返せば、パウロを守り、励ましている。追い風が吹いている。この物語を読んでいて気が付くこと。パウロの周りで世界が動いている。世界がパウロに近づいてきている。パウロは何を語っていたのか。本当って、こういうことでしょ。パウロはずっとそれを語っていた。本当の人って、本当の国って、本当の世界ってこういうことでしょう、と語ってきた。「神」「イエス」本当を知るにはここを考えればすぐに分かる。だから「神」「イエス」を語る。それは自分の神が優れているの宣伝ではない。神に、こちらも、あちらもない。本当しかない。だからパウロは外国に行く。ユダヤだけに通じるものではない。世界中どこに行っても通じる。本当だから。どこでも、いつでも変わらないもの、本当を語る。世界はパウロに近づいていく。ガリオン、地方総督、当然情報収集に怠りはない。パウロのこともすでに知っていたと考えるのが自然。そのガリオンがパウロを守る。ここにはユダヤ、ローマ、そんなとこで区分されない「本当」があると思ったから。世界は本当に近づいていく。ライプニッツが二進法を発表した時、誰も見向きもしなかった。そこから300年、今や「0」「1」で全てが動いていると言っても過言ではない。世界は本当に近づいていく。パウロ、ライプニッツの話ではない。世界の本当。誰でも見つけられる。本当の私に私がなれば、誰も見ていない、本当を見ることができる。本当を見つけ、本当を語る世界は本当に近づいていく。「恐れるな、黙っているな、語り続けよ、私はあなたと共にいる」世界は本当の私が作っていく。2025.10.12 02:58
9月28日 主日礼拝9月28日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録18章1〜17節パウロはコリントに到着する。宣教活動に励む。そしてここでもユダヤ人からの批判にあう。神をしがみつく対象だと考えるユダヤ人。神は、人が何にもしがみつかなくても良いようにちゃんとしたものとして造られたと語るパウロ。神を信じるとはこの世界は大丈夫、自分は大丈夫と信じることとするパウロに対しこの世界は恐ろしいところ、それ故、神にすがらなければ、神のご機嫌を損なうようなことをしてはいけないと考えるユダヤ人。どこまで行っても平行線。ついにパウロはユダヤ人と決別をして異邦人の方へと行くと宣言をする。だが、それは自分のこれまでを否定すること。これまでの仲間、環境、それらと全てと決別をすることでもある。そんな時、主の幻をパウロは見る。「恐るな、黙っているな、私はあなたと共にいる。この町には私の民が大勢いる」自らの信じることを行え。この言葉に励まされパウロは宣教を続ける。ガリオンが地方総督になった時、移管の不安定期にじょうじてユダヤ人がパウロを捕らえ法廷に突き出す。何も知らないガリオンならパウロを裁いてくれると目論んで。ところがガリオンはユダヤ人の訴えを聞くや否や即答する。「お前たちの話には何の社会性も、将来性もない。そんな小さな話を法廷に持ち込むな」門前払いをする。何かを握り締めなければいけない。執着、固執をする。当人にとっては一大事だが、そこには何の広がりもない。それが社会の評価。神の約束、自らの信じることを行ったパウロ。その結果、自分を罵っていたものたちの社会的評価を知った。とるに足らない。神の約束、自らの信じることを行ったパウロ。そのパウロが経験したもう一つのこと。法廷から門前払いをされたユダヤ人たちは会堂長ソステネを不満の吐口として袋叩きにする。理由は記されていないが恐らくはユダヤ人と共にガリオンへの直訴を計画した一人。とんだ恥をかかされたことで怒りは首謀者へと向けられたと推察される。その証拠にガリオンもこの様子を黙認をしている。自業自得程度に見ていたものと思われる。このソステネ、再び新約聖書に登場する。今回の舞台となったコリントの教会に宛てたパウロの手紙。その冒頭「イエス・キリストの使徒となったパウロと兄弟ソステネからコリントの教会へ」コリントでの騒動から手紙までの間に何があったのかは何の記録もない。経過を記す記録はないがソステネはパウロの同労者になっている。パウロを貶めようとしたソステネ。時を経てパウロを支えるものになっている。コリントの教会に仕えるものになっている。パウロとソステネの間に何があったのかは分からない。だがパウロがしたことは分かっている。「恐れるな、黙っているな、この町には私の民が大勢いる」パウロはこの言葉を信じた。信じて行った。私の信じること。どこかにつながっている。何かにつながっている。未来に必ずつながっている。思いを超えた何かを作り出す。2025.10.12 02:55