本多記念教会

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苦難の先

2018年7月8日使徒言行録11章19-30節使徒言行録の記す教会の記録。教会の始まり。そこでは聖霊が働いている。聖霊は何をしたのか。 ステファノの殉教をきっかけに教会への迫害が始まった。教会が混乱する。隠れるもの、逃げるもの、信仰を捨てるもの。様々な反応を引き起こす。その中のある者たちはエルサレムを離れ遠い北の町アンティオキアに避難する。最初、何も語らなかった彼らはではあったが時期を見てギリシア語を話す人々に福音を宣べ伝えた。その結果、多くのものがイエス・キリストを信じるようになる。その出来事を聞いたエルサレム教会はバルナバを派遣する。バルナバはその際サウロを伴いアンティオキアに入る。バルナバ、サウロ、この二人の働きにより教会はますます盛んになる。ちょうどその頃アガポという霊に満たされたものが大飢饉の起こることを予告する。果たしてその通りに実現した。アガポの予告を聞いていたアンティオキア教会には備蓄があったが、エルサレム教会は飢饉の被害をそのまま被る。後からできたアンティオキア教会であるが、この時にエルサレム教会に支援の手を差し伸べる。最初の教会の様子を使徒言行録は書き記す。聖霊は何をしたのか。境界線を越えていく。異国のアンティオキア。そことエルサレムとの間には境界線はない。教会を迫害していたサウロ。教会と自分は違うという境界線があった。それがいまや取り払われている。境界線を越える。それは表現を変えれば、このようにも言えよう。新しくする。新しい教会。新しい仲間。このアンティオキアで教会は「キリスト者」と呼ばれるようになった。新しい名前。聖霊は何をなすのか。新しくする。それが聖霊の働き。そして、その働きは今も決して変わることはない。今も聖霊は新しいことをなしている。もし新しいことが生まれていないのだとしたらそれはわたしが聖霊を押しつぶしているから。エデンの園では神の言葉に逆らい、主イエスを十字架にかけたのが人間。人間には神をつぶす力が与えられている。私たちの内なる聖霊。耳を傾け、共に歩む。新しいことが始まっているのが見えてくる。聖霊は何をするのか。世界を、わたしを新しくする。常に新しい永遠の命。聖霊が変わらずなしていること。

「先へ進まれる神」

2018年7月1日使徒言行録11章1-18節  神の言葉聖霊ユダヤ人だけが分かるものと思っていた。ユダヤ人だけの恵みと持っていた。ところがそれが異邦人のも与えられた。ペトロは自分が目撃したことをエルサレムの教会に伝える。使徒言行録は教会の始まりを記す書物。そこに登場してくるのは聖霊。教会の始まり、教会の働き、そこにはいつも聖霊がいる。聖霊のよって教会は成立している。ペトロが異邦人と交流を持ったことに、エルサレム教会は憤る。異邦人と交わらない。それが神の戒めだと信じていたから。ペトロが経験したヤッファでの出来事。ローマの軍人コルネリウス達に語っていた時に聖霊が降ったこと。洗礼を授けたこと。これを聞いたエルサレム教会は大変驚き、その事実を受け入れていく。教会を作っている聖霊。聖霊は何をするのか。使徒言行録は始めから明確に語っている。ペンテコステの朝、聖霊が降ると、使徒たち、ガリラヤの者たちが異国の言葉を語り出す。聖霊に導かれたペトロは異邦人に洗礼を授ける。異国の言葉、異邦人との交わり、聖霊の働きはいつでも明確になっている。隔て、境界線、違い、それらを飛び越える。隔ての壁をなきものにする。向こう側へ人をいざなう聖霊。聖霊の働きとは何か。愛の実践。聖霊はいつでも広い。広々としている。ペトロの報告を聞いたエルサレム教会。ここに教会のあり方が語られている。エルサレム教会はヤッファで起こったことを直接経験してはいない。ただペトロの言葉を聞くだけ。その報告でペトロは言う。「私たちに降った聖霊が彼らにも降りました」。あなたの中にある聖霊、それが彼らにもある。エルサレム教会は目撃していないのだからペトロの言葉を否定しようと思えばいくらでもできた。我が内なる聖霊、それが彼らにもある。聖霊に聞けばそれが偽りか真実かすぐに分かる。聖霊に聞く。聖霊が語る。広々とした聖霊が何を語るのか。エルサレム教会聖霊に聞き、自らの主張を喜んで悔い改める。聖霊を思い出した人々。聖霊と共にある人々。教会の変わらぬ在り方が示されている。 

命を掘りあてる

2018年6月24日創世記26章15ー33節不安、困難の現実と直面すると、人はなんとかしようと慌て出す。異国で命の危険を感じたイサクは妻を妹だと偽って生き延びようとする。結局、神に全てを明らかにされ目論見は失敗するが守られ、繁栄が与えられる。神がどんな時も守っている。その経験をイサクはする。
 そのイサクがまた試練に遭う。王様アビメレクに住んでいるところを追い出される。かつて父アブラハムが掘った井戸をことごとく塞がれる。生きる糧、希望、それが潰されていく。イサクたちは井戸を掘りあてても土地のものに略奪される。希望が生まれない。闇と直面している。
 ある時、アビメレクが突然、イサクに和解を申し出る。誓約を交わし平安のうちにそれぞれのところで生活を始める。その直後、イサクの元に僕が帰ってくる。「水が出ました」。新しい井戸を掘り当てた。
 私たちが感じる「闇」は人間関係であったり、社会情勢であったり見えるもの。イサクはアビメレクとの関係で翻弄される。翻弄されている間じゅう奪われもするが井戸は掘り出されている。そしてアビメレクとの和解が成立してからも井戸は見出される。見えるもの、それがどんな状況でも井戸は生まれ続けている。何が語られているのか。 関係がない。 見えるものがどうであれ井戸は見つかる。うまくいっても、行き詰っていても、関係なく井戸は生まれている。井戸、生きる糧、生くる望み。神の守り。 楽しい、つらいは人の判断。その人の足もとで起こっている。井戸は何にも影響されずに生まれ続けている。苦難の底、闇の根底、そこにも溢れる泉は湧き上がっている。見えないところ。そこには今も私を支える確かな神の恵みが満ち溢れている。信仰は神様に見える世界を整えてくれと要望を出すことではない。わたしの足もとには尽きぬ泉があることを知る。信じる。わたしの命を信仰は支える。 

「来る神の音」

2018年6月17日長老会神学大学教授・崔 眞奉(チェ・ジンボン)牧師ハバクク書2章4節  神に従う人は信仰によって生きる。「神に従う人は正しい人」とも訳す。正しい人は信仰によって生きる。我々が生きる現実は、BC600 年の南ユダ王国と変わりない。矛盾と不条理に満ちている。内面的な葛藤や対立は深まり、物質主義が行き渡る。「あなたにとって、この世はどんなところ」という中学生へのアンケート。ある中学生はこう記す。「この世界は混乱していて、貪欲と欲望に満ちている。力ある者が生き残り、弱者は死んでゆく。この世界はまるでめちゃくちゃになった花畑のよう。」数年前のワシントン・ポスト誌の記事は「Hell Chosen 非常口を探している韓国の若者」。韓国社会、その未来は地獄のよう。私たちは現実に絶望する。しかし、私たちが絶望する真の理由は、神の真理が必ず勝利すると信じようとしないため。2 章 4 節は、預言者の問い詰めに対する神の答え。「神に従う人」は、韓国語訳では、「正しい道を選ぶ者」。ここでの正しさは、道徳的、法的意味はない。また使徒パウロのいうイエス・キリストによる罪赦された清い状態をも意味しない。変わらない気持ちで、誠実な神を信じ続ける人。七十人訳は、「わたしにより頼むその信仰によって、彼は命を得る」と訳す。正しい人の信仰は、神が単なるまともな神である、神は生きておられる、という以上のもの。それは時と時間に対する信仰、神がすべてのものを裁かれるその日が必ず来ると信じる信仰。中学生の最後の言葉。「この世界はまるでめちゃくちゃになった花畑のようだが、いつかは飛び上がることができる希望が私にはある。」嘆き、怒り、諦めに包まれた預言者は、再び神を待ち望む。嘆きの言葉は、頌栄となる。沈黙の中で語られた神の言葉が光となり、この世の闇と混沌を照らす。敬愛する皆さん、神は到来しつつある。遅れても必ず来られ、この世の矛盾、秩序を正される。義と真理、愛と平和の国が建つ。神の言葉に希望あり。神が来られる。正しい人は信仰によって生きる。

神の広さ

2018年6月10日使徒言行録10章44ー48節「この人たちが洗礼を受けるのに何の妨げがありますか」。異邦人コルネリウス達に降った聖霊を目撃したペテロが語った言葉。使徒言行録の記述に従えば「洗礼」と「聖霊が降ること」は結びついたものとなっている。サマリアに赴いたフィリポは信仰を持った人々に洗礼を授けた。そこにペテロ達が到着して聖霊を与えた。サマリアはかつては同じ国。先に洗礼を授けても必ずや聖霊、神の恵みはやってくると想定ができた。同じ民族、同じ神に選ばれた民。エチオピアの宦官にフィリポが福音を語った時、宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに何の妨げがありますか」。エチオピアの宦官、ローマのコルネリウス、異邦人。彼らと「洗礼」が直面した時「何の妨げがありますか」との表現が登場してくる。これは何故か。妨げがあったから。異邦人に洗礼は関係ない。彼らに神は分からない。ペテロがコルネリウス達に会いに行く。最初、彼は拒んだが神に押し出されそこへ赴く。主イエスの出来事を語る。熱心に聞いてくれる。だがそれは理性レベルでのこと。情報として共有し、共感するもの。それで十分と思っていた。お互い違う価値観を持っているのだから、違う民族なのだから、その違うもの同士に共通のものかある。それで十分と思っていた。そこに聖霊が降ってくる。聖霊が降るとかつてペテロたちが経験したことと同じことが起こる。同じ。「私たち」と「彼ら」ではない。みんなが「私たち」。何の妨げがあるのか。妨げ。「許可」「不許可」の間の境界線の設定が妨げを作り出す。妨げはない。境界線はない。神は境界線を認めていない。敵などいない。これはつらいこと。憎しみの対象、境界線の向こう側に置いておくことで安らぎが維持されることもある。だがその敵とは一体何人か。妨げがない。それは誰とでも友になれること。何人とでも、全ての者と友となれること。今の敵とこれからの友とどちらが多いか。敵は本当に敵なのか。そんなことができるのか。根拠は?予想数値は?確かに理性ではそういう言葉になる。だが我々は宗教だ。信じて行く。希望を持つ。神話に自らを委ねる。教会はそうして2000年の時を刻んできた。 

誰もが生きる

2018年6月3日使徒言行録10章34ー43節ペンテコステに降った聖霊。それはどのような働きをするのか。神は何をなすのか。
 ローマの軍人コルネリウスは神を求めていた。その彼に神が語りかける。「隣町ヤッファにいるペテロを訪ね、招き入れろ」と。同じ頃ペテロも幻を見る。「汚れた動物を食せ」と神から命じられる。習慣に従い拒むと神が告げる。「神が清めたものを拒むな」と。
 ペテロが眠りから覚めた時、コルネリウスの使いの者がペテロを訪ねて来る。その求めに応じて異国の者、これまで交流をしてこなかった者の所に赴く。果たしてそこには神のことを聞こうと多くの人々が集まっていた。この聖書を読む私たちは登場人物「ペテロ」を「使徒ペテロ」と弁えて読んでいる。だが、物語の表現に従って読む限りコルネリウスたちは「ペテロを訪ねろ」と命じられているだけで、彼の素性までは知らされていない。とすると、この箇所ではこのようなことを推測することが可能なのではないか。神の命令によってペテロを連れて行きた。失礼のないようにもてなすが目の前にいるのは漁師ではないか。体も逞しく日焼けした浅黒いもの。おおよそこれまで神について語ってきた学者たちとは似ても似つかない風貌。このような者から何が得られようか。ペテロの話が始まる。神について、イエスの活動について、エルサレムでの出来事について、主の復活について語られる。そして最後にペテロは言う。その復活した主イエスと食事をしたのはこの私です、と。目の前にいる浅黒い漁師は神と共にいた。立派な身なりをしたどの学者たちより最も神の近くにいた。これ以上ない神を語るにふさわしい者、最高の者が今、自分たちの目の前にいる。ペテロは主が最後に告げられた言葉を紹介する。「宣べ伝えよ」と言われていたこと。それはまさか異邦人にまでとはペテロは想像してなかった。福音とはどれだけの力を秘めているものなのか。 ペテロ、コルネリウス、彼らが体験したことは何か。目の前の現実は自分の想像を遥かに超えているということ。聖霊、神の働き。私を超えていつでもこの上のない最も良いもので人を満たす。愛されている。聖霊によって人が知らされること。 

何度でも救う

2018年5月27日創世記26章1−14節私たちが信じている神様はどのような神様なのか。その神様が、もし喜んだり失望したりするとしたら、それはどのような時なのか。自分の命を守るために、妻を「妹だ」と言って為政者に差し出す。このあらすじを持った話を創世記は三回、記している。アブラハムが二回、息子のイサクが一回。なぜ三度も同じ物語を記す必要があったのか。妻を「妹だ」と言う。彼らは生きるために、異国に身を寄せなければならなくなった。よそ者に対して奇異の目にさらされる。美しい妻。この妻を獲得しようと男たちは自分を殺すかもしれない。夫であるアブラハム、イサクの不安。一緒にいる女性は妻ではなく妹だと申告する。それによって死を免れる。アブラハムは神から妻サラとの間に子供が生まれるとの約束を受けていた。イサクは母のサラが亡くなった時に神の導きにより妻リベカと出会った。彼らにとって妻は神様から授かったもの。心情的にも大好きなもの。その彼女を妹と言う。それは二度と夫婦の関係に戻れないこと、神との関係を捨てるに等しいこと。夫婦として、してはならない選択、最悪の決断。しかし生きるために彼らはそれを選んだ。神様が下さった恵みを捨てるかの行為。神はその者たちをどのように取り扱ったのか。妻を妹だとする偽りの申告は神から為政者たちに真実が知らされる。その結果、妻は夫の元に返され沢山の財産が与えられ解放される。アブラハムらの計算ではあるまい。人の世の常とは違う。最悪の選択をした夫婦。どん底に落ちる選択をした者。彼らはそこで大きな恵みを受ける。神様とは何か。神様は人が最悪な所に進んで行ってもそこで大きな恵みを与える。行ったら最後帰ってこられない所に行っても導き返す。主イエスの十字架と復活は不思議な事件の報告ではない。世界のあり方を示している。神は人を追いかけ救い出す。死んでも救い出す。そういう世界に人はいる。その神を疑い自分の業を評価してくださるのが神だと思い上がる者に神は嘆かれる。創世記は三回この物語を記す。何度でも起こるから。アブラハムからイサクへと時代が変わっても起こる。かつても今もこれからも起こる。恵みは何があっても変わらない。その信仰が神の期待。神の喜び。 

希望がある

 2018年5月20日 森下滋伝道師コロサイの信徒への手紙 1:1-8  教会の塔に付いた十字架は自分にとって遠く感じる。キリストは苦労したが幸せな男子だ。私はそのように赦してくれるならば、自らの首を垂らし、流れる血を天の底に流そう。いや、それは出来ない私がいる。韓国の国民的詩人の尹東柱はこう詩を書いた。日本による統治下において希望が持て無い。彼のようにキリストへの信仰を持ちながらも心が引き裂かれる時に、私たちには何が希望なのであろうか。教会は希望が持てない人に対して何を希望として語るのか。
 コロサイの若い教会に向けた手紙。神の御心は時に受け入れ難い事があるとパウロは告げる。しかし私たちの生命の中心であるキリストの内にあれば、平安があり、更なる祝福の契約に招かれている。 神の家族となる。コロサイ教会が持つ信仰と愛は、希望を通して今も継続して天に蓄えられている。この信仰は儀礼的な宗教的信心では無い。何が真実であるのかを理性的に求める信念と献身のセットである。私たちが理解して伝える事ができる為に神は言葉、キリストは言葉として私たちに現れて下さる。福音という真理の言葉。主イエスの十字架での死と復活を伝える言葉により、私達に決定的な価値転換が起きた。神の恵みを聞いて真に悟る日が与えられる。その恵みにより私たちは成長する。パウロは問う。私たちは友のためにキリストに信念を持って奴隷となっているか。 霊とは何か。霊は愛を生み出す。それは人間的な愛情以上のものである。私たちの為に希望が天に蓄え続けられている。 希望を聞こうと受け入れようとしないのは私たちの罪の故である。 自分を人生の中心におく事と決別する。キリストの奴隷となり、神と教会と友に仕える。ペンテコステの今日から私たちは真理を伝える者に変えられる。主イエスは私たちに決断を求める。私たちが手放したく無いものを手放し、主イエスの十字架の愛を受け取り従って行く。希望の道を歩もう。

ためらわず行く

2018年5月13日使徒言行録10章1-33節 福音がユダヤから異国の者に伝わっていく。それまでになかったこと。画期的出来事をルカは記す。ただこれは過去の記録ではない。ルカはこの出来事はいつでもどこでも起こるものとして読者に語りかけている。人の心がある備えをなせば伝わらないと思っているものが、どこまでも広がっていくと語りかける。何が私たちの心に必要なのか。ペテロは異国の者、コルネリウスと出会う直前、二人の女性を癒している。片方は偶然に出会った者、もう一方は計画の中の者。片方はまだ息がある間に合った者。もう一方は、すでに息絶え、間に合わなかった者。正反対の者。正反対であるがどちらの者にもペテロは声をかける。「立ち上がれ」と。すると彼女達は立ち上がる。同じことが起こる。状況が正反対でも同じことが起こる。ペテロとコルネリウス。ヤッファとカイサリア。離れた街にいる二人。カイサリアにいるコルネリウスは「ヤッファにいるペテロの所に行け」との言葉を主から受ける。ヤッファにいるペテロも夢で「神が清めたものを忌み嫌うな」と異国の者との交流が始まる暗示を受ける。離れている両者がそれぞれにこれから起こることの示しをいただく。片方にだけ言葉をかけて「行って来い」「頑張れ」とはなっていない。両者に語りかける。ヤッファではカイサリアについてのことが。カイサリアではヤッファについてのことが。お互い離れた所で同じ出来事を共有する。「同じ」の共有が起こる。ペテロが癒した女性たち。正反対の状況で同じことが起こる。ヤッファとカイサリア、異なる地でお互いに相手を共有している。あたかも鏡に写しているように正反対なのだが同じものが浮かび上がっている。人が「伝わらない」と諦めたもの。それがどこまでも広がる。ある心の備えが必要。何が必要なのか。「同じ」と見据える心。正反対でも「同じ」ものだと見極める心。目に見えるものは異なるもの、相反するものに見えるかもしれない。それでもその本質には「同じ」がる。それを見定める。「味方と敵」「生と死」全く正反対の異なるもの。永遠の命。敵を愛する。敵も味方も変わらない。生も死も変わらない。主イエスが私たちに残してくださったものは「同じ」を見極める力。「同じ」その心の持ち方が世界を広げていく。 

起き上がれる

2018年5月6日使徒言行録9章36-45節 イースターから40日後、主イエスは天へと昇られた。今年の暦では今週の木曜日がそれにあたる。主が天へと帰られた後、聖霊が下り教会の時代が始まる。使徒言行録はその教会の時代を記す書物。教会の時代、何が起こったのか。主の後に下った聖霊は何を行ったのか。ペテロが二つの奇跡をなす。二人の女性、アイネアとタビタに奇跡をなす。二つの出来事はよく似ている。聖書は時々こういう書き方をする。似ているものを隣接させてそこからメッセージを語りかける。二つの物語は読者に何を語りかけているのか。二つの物語が持つ共通点。アイネア、タビタ、この二人は病が原因で床に伏している。そこにペテロがやってくる。そして語る。「起きなさい」と。この二人は起き上がる。それを見ていた人々は「立ち返る」「主への信仰を持つ」とある。今までと違う何かと接したから「立ち返り」「信仰」は生まれたのだろう。彼らは何を知ったのか。彼らがそれまで見ていた世界とはどういうものだったのか。「起きなさい」と言われて立ち上がる。これに驚く。なぜなら彼らは思っていた。人は倒れたら立ち上がれない、と。過ち、失敗、罪、犯したら一生背負う。一生支配される。倒れたら立ち上がれない。ペテロは語る。倒れているものに「起き上がれ」と。すると起き上がる。人は立てる。倒れても立てる。彼らは知った。新しい世界。まことの世界の本質。しかしそれはペテロがいたからではないか。かつての話で今とは無関係なのではないか。二つの物語の相違点。そこにその答えがある。 アイネアとの出会い。これは偶然のもの。一方、タビタは人に案内されて行く。会うことが想定の中にある。アイネアは8年病で苦しんでいたがペテロと出会ったとき生きていた。タビタはすでに死んでいた。間に合ったもの、間に合わなかったもの。二つの物語には相違がある。この相違は何を語るのか。「偶然」と「想定内」「時間内」と「時間外」。正反対の状況。正反対の状況で同じこと「立ち上がる」が起きる。「立ち上がる」それは正反対でも起きる。片方から片方に至るまで起きる。それはどんな状況でも起きるということ。聖霊は何を行ったのか。人は倒れても立ち上がれる。特別の条件、原因があってそれは起こるのではない。どこであろうと、いつであろうとそれは起こる。今、ここでも。聖霊の業。私はいつでも立ち上がれる。 

「欲しい」

2018年4月29日創世記25章27-34節ヤコブの物語が始まります。ヤコブは双子の弟。兄はエサウ。母親のリベカはこの二人を胎に宿したときに大変苦しんだ。お腹の中で争い合う二人。どうかなってしまうのではないかと苦しんだ。二人のものが争う。隣り合っているもの。そっくりなもの。その両者が争う。どこにでもあること。いつの時にもあること。リベカの胎の中の出来事は世界の姿。 なぜ世界は争うのか。私たちの心の中に何があるのか。成長したエサウとヤコブのやり取りがそれを教えてくれる。狩を得意とするエサウ。そのエサウが狩から腹をすかせて帰ってくる。ヤコブの料理。それが欲しくてたまらず懇願する。「それを今すぐ食べさせてくれ」。これに対しヤコブは「ならばあなたがもっている長子の権利を私に譲ってくれ」と持ちかける。空腹のエサウはヤコブの申し出を受け入れ長子の権利と交換に食事にありつく。エサウとヤコブは何をしたのか。彼らの心の中にあるものはなにか。 この物語の二人に共通しているもの。それは「欲しいものがある」ということ。エサウは食事が欲しい。ヤコブは長子に権利が欲しい。聖書は人が「何かを求めること」を否定してはいない。ただ、何を求めたら良いのか、それはしっかりと問いただす。「つまらないものを求めるな」と語る。ヤコブとエサウが求めたもの。この後の展開ではこれが原因で両者は仲たがいをしていく。求めなくてもいいものを求めたからか。求めなくてもいいものとは何か。エサウは「すぐに欲しい」。ヤコブは「自分にないものを欲しい」。どちらも欲望を掻き立てるには十分な材料を持っている。「今すぐ」「自分に欠落しているもの」欲しい、必要を正義にする。人は何を求めるのか。物語の進行と共にそれは段々と明らかになるが今日の箇所で私たちが確認したいこと。それはなぜ争い合う双子が生まれたかということ。両親、イサクとリベカが神に祈り、それを神が聞き入れたからと聖書は記す。争い合う二人は神の働きによって産まれた。神の手によって生まれた。「今すぐ欲しい」神に包まれているのに「今すぐ」の判断は必要なのか。「自分にないものが欲しい」。神に支えられているのに「足りないもの」が本当にあるのか。神を忘れて欲しがるもの。余計なもの。神を覚えて欲するもの。必要なもの。「欲しい」自分だけに集中していなか。そこに世界は見えているか神を見ているか私の思い「欲しい」小さいものを求めていないか「欲しい」はもっと大きなものを求め出せる力を秘めている。

予定外

2018年4月22日使徒言行録9章19-31節 目が見えるようになったサウロ。彼はどのような世界を見たのか。「見える」とは何が見えることなのか。サウロはすぐに「この人こそ神の子だ」と宣教を始める。サウロが回心したとは教会の側の言い方。サウロがそれまで属していたユダヤ教の側からは、裏切り者。間違った道に入り込んだ愚か者。ユダヤ教の者から、旧知の者から命を狙われる。一方の教会はどうか。回心したとは言え、それはさウロの内面で起こったこと。誰もそれを信じられない。教会においてもサウロは受け入れられない。四方八方敵だらけ。見えるようになったサウロがみている世界。そのような世界でサウロは伝道をする。敵を増やすかのような行いをする。何故そのようなことを行うのか。見えるようになったサウロが見ているもう一つの世界がある。サウロの宣教の第一声は「この人こそ神の子」。サウロの目が見えなくなった時、彼は主イエスと直接に言葉を交わした。「この人」。もう姿が見えなくなったはずの主イエスを「この人」と呼ぶ。サウロには主イエスは遠い存在ではない。直接話せる、すぐそばのもの。敵が四方八方から迫っている。それは現実。そしてさサウロにはもっとはっきりとした現実があった。敵よりも何よりもすぐそばにいる方がいる。主イエス、神がすぐそばにいる。すぐそばにいる神は何をなさる神なのか。敵だらけのサウロを弁護する者としてバルナバの働きを物語は記す。使徒言行録は神の働きを明快に語っている。主イエスが離れた後、12弟子以外の者が登場してくる。ステファノ、フィリポ、サウロ、バルナバ。次々に目覚しい働きをするものが現れる。神は何をなさる神なのか。新しいものを起こす。次々に起こす。次々に新しいことをなす。日々、新しいことを創造する。すぐそばに神様がいる。すぐそばで新しいことが創造されている。そばにとどまらない。私自身の中でも起こっている。私が新しくなっている。罪、過ち、過去、人を閉じ込め、古いままにしておこうとする力。新しくなったサウロをユダヤ教は受け入れない。新しくなったサウロを教会は信じられない。誰も理解してくれなくとも、応援されなくともサウロのすぐそば、彼の中で起こっていることは常に新しいものが造られている。古いものに付き合ってはいられない。すぐそばで新しいことが常に生まれている。サウロはその世界を見ていた。その世界を語った。見えるとは何が見えるのか。語らずにはいられない。喜ばずにはいられない次から次に押し寄せてくる恵みを見る。