10月5日 主日礼拝10月5日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録18章18〜23節「恐れるな、黙っているな、語り続けよ、私はあなたと共にいる」パウロが聞いた神の言葉。パウロの伝道旅行。向かい風の中で始まった。パウロの言葉を否定するもの。パウロを捕らえては裁判権のある者に引き渡す。パウロの弁明も聞かず鞭打たれ牢獄に入れられる。他の町でも同様なことが繰り返される。コリントの町でも同じことが起こる。ユダヤ人はパウロを捕らえ地方総督ガリオンのところに差し出す。「この男は世間を混乱させようとしている」と主張する。パウロがこれに弁明しようとした矢先、ガリオンが口を開く。そんなことに私は関わるつもりはない、と。逆風の中を歩んできたパウロ伝道旅行の物語を読んでいると、逆風が段々と弱まっていることに気が付く。その極みがこのガリオン。自分は関わるつもりはない。それは裏を返せば、パウロを守り、励ましている。追い風が吹いている。この物語を読んでいて気が付くこと。パウロの周りで世界が動いている。世界がパウロに近づいてきている。パウロは何を語っていたのか。本当って、こういうことでしょ。パウロはずっとそれを語っていた。本当の人って、本当の国って、本当の世界ってこういうことでしょう、と語ってきた。「神」「イエス」本当を知るにはここを考えればすぐに分かる。だから「神」「イエス」を語る。それは自分の神が優れているの宣伝ではない。神に、こちらも、あちらもない。本当しかない。だからパウロは外国に行く。ユダヤだけに通じるものではない。世界中どこに行っても通じる。本当だから。どこでも、いつでも変わらないもの、本当を語る。世界はパウロに近づいていく。ガリオン、地方総督、当然情報収集に怠りはない。パウロのこともすでに知っていたと考えるのが自然。そのガリオンがパウロを守る。ここにはユダヤ、ローマ、そんなとこで区分されない「本当」があると思ったから。世界は本当に近づいていく。ライプニッツが二進法を発表した時、誰も見向きもしなかった。そこから300年、今や「0」「1」で全てが動いていると言っても過言ではない。世界は本当に近づいていく。パウロ、ライプニッツの話ではない。世界の本当。誰でも見つけられる。本当の私に私がなれば、誰も見ていない、本当を見ることができる。本当を見つけ、本当を語る世界は本当に近づいていく。「恐れるな、黙っているな、語り続けよ、私はあなたと共にいる」世界は本当の私が作っていく。2025.10.12 02:58
9月28日 主日礼拝9月28日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録18章1〜17節パウロはコリントに到着する。宣教活動に励む。そしてここでもユダヤ人からの批判にあう。神をしがみつく対象だと考えるユダヤ人。神は、人が何にもしがみつかなくても良いようにちゃんとしたものとして造られたと語るパウロ。神を信じるとはこの世界は大丈夫、自分は大丈夫と信じることとするパウロに対しこの世界は恐ろしいところ、それ故、神にすがらなければ、神のご機嫌を損なうようなことをしてはいけないと考えるユダヤ人。どこまで行っても平行線。ついにパウロはユダヤ人と決別をして異邦人の方へと行くと宣言をする。だが、それは自分のこれまでを否定すること。これまでの仲間、環境、それらと全てと決別をすることでもある。そんな時、主の幻をパウロは見る。「恐るな、黙っているな、私はあなたと共にいる。この町には私の民が大勢いる」自らの信じることを行え。この言葉に励まされパウロは宣教を続ける。ガリオンが地方総督になった時、移管の不安定期にじょうじてユダヤ人がパウロを捕らえ法廷に突き出す。何も知らないガリオンならパウロを裁いてくれると目論んで。ところがガリオンはユダヤ人の訴えを聞くや否や即答する。「お前たちの話には何の社会性も、将来性もない。そんな小さな話を法廷に持ち込むな」門前払いをする。何かを握り締めなければいけない。執着、固執をする。当人にとっては一大事だが、そこには何の広がりもない。それが社会の評価。神の約束、自らの信じることを行ったパウロ。その結果、自分を罵っていたものたちの社会的評価を知った。とるに足らない。神の約束、自らの信じることを行ったパウロ。そのパウロが経験したもう一つのこと。法廷から門前払いをされたユダヤ人たちは会堂長ソステネを不満の吐口として袋叩きにする。理由は記されていないが恐らくはユダヤ人と共にガリオンへの直訴を計画した一人。とんだ恥をかかされたことで怒りは首謀者へと向けられたと推察される。その証拠にガリオンもこの様子を黙認をしている。自業自得程度に見ていたものと思われる。このソステネ、再び新約聖書に登場する。今回の舞台となったコリントの教会に宛てたパウロの手紙。その冒頭「イエス・キリストの使徒となったパウロと兄弟ソステネからコリントの教会へ」コリントでの騒動から手紙までの間に何があったのかは何の記録もない。経過を記す記録はないがソステネはパウロの同労者になっている。パウロを貶めようとしたソステネ。時を経てパウロを支えるものになっている。コリントの教会に仕えるものになっている。パウロとソステネの間に何があったのかは分からない。だがパウロがしたことは分かっている。「恐れるな、黙っているな、この町には私の民が大勢いる」パウロはこの言葉を信じた。信じて行った。私の信じること。どこかにつながっている。何かにつながっている。未来に必ずつながっている。思いを超えた何かを作り出す。2025.10.12 02:55
9月21日 主日礼拝9月21日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録17章16〜34節アテネに到着したパウロは憤慨をする。きらびやかな偶像が数多くある。立派な神殿がある。パウロの信仰、世界観。神が始めた。イエス・キリストがそれを完成させた。はっきりとした世界観がある。アテネの世界観。新しいものを次から次に求めている。神を次から次に作り出している。満足しない。満足を求めながら満足を得られていない。パウロから見ればそれはボンヤリした世界観しか持ち合わせていないもの。アテネの人々。集めている。言葉を、価値のあるものを、神を集めている。それを同じ地平の上に集めて何を獲得すれば幸せになれるのかと、集め続けている。同じ地平。彼らの到達点、基盤。人はいつかは死ぬ。その経験を基盤にして幸せになると思われるものを集めている。基盤をあたかもテーブルにして、その上に次から次に集めている。次から次に集めても何が良いのか、何が必要なのか分からない。パウロはそれをみてボヤッとしていると憤る。復活。パウロにはその信仰がある。復活。それはアテネの人々が基盤にしている「死」を打ち壊すもの。基盤がなくなれば次の基盤が出てくるのか。永遠の命。それは終点のないもの。終わり、ここまで、がないもの。次の基底は出てこない。どんなに集めても満たされない生き方は根底を設定している。底、基底を前提にしている。その基底、テーブルの上に何が並べられるか。どれだけ良いものを並べられるか。実行するがそれをどんなに繰り返しても何も出てはこない。無駄なことに労力を使う。ボヤッとした生き方。パウロの世界観。底などない。基底などない。答え、正解などない。どこまでも進む。進める。行ける。世界は良い。定まった地平、奥底にあるテーブルの話ではない。進み続けるものだけが味わえる世界。世界は良い。もっともっと良い。まだまだ良い。その良いの中を進みゆくもの。信じるもの。その者が真の平和を造り出す。2025.10.12 02:54
9月14日 主日礼拝9月14日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録17章10-15節テサロニケでの難を逃れ、べレアに到着するパウロ。ベレアの人々はテサロニケと違ってパウロに友好的。自ら学び、パウロの教えに賛同する。そこにテサロニケからの追手がやってきて再びパウロに危害を加えようとする。ベレアの人々はパウロを逃がしアテネへと送り出す。ルカの記した使徒言行録、ここではテサロニケの人々は批判的に記録されている。一方、パウロ自身の記した「テサロニケの信徒への手紙」、これは穏和な手紙になっている。同じ町の情報とは思えない、異なる言葉でテサロニケは記されている。なぜなのか。どちらかが間違っているのか。パウロの信仰とはどういうものか。パウロは律法に熱心なもの。これは生涯変わらない。ただ律法の捉え方、解釈はイエスと出会って全く変わった。律法を大切にするパウロ。それは律法にすがっていた。依存し、支配されていた。律法にしがみつき、握りしめる。何故、そうする必要があったのか。世界が怖かったから。この恐ろしい世界を生き抜くためには自分一人では生きていけない。自分以外の力のあるもの。神様、それにすがらなくては生きていけない。それが信仰だと思っていた。イエスが教えてくれたこと。信じるはすがることではない。信じるは安心すること、委ねること。世界は怖いところではない、良いところ。イエスと出会ってからのパウロの信仰。いかにして自分以外もの、自分に張り付いているものを引き剥がすか。それを生涯、模索する。テサロニケはおそらくルカの記したようにパウロに対して批判的なところ。ならば何故パウロはそのテサロニケに穏和な手紙を記したのか。相手にしていないから。敵対するもの、そのものたちの言動を心に貼り付けていない。心、乗っ取られていない。彼らは彼ら。私は私。自分と彼らの区別ができている。パウロは支配されず、なすべきことを行う。穏やかに自らの使命を果たす。使徒パウロ。パウロが使徒として語り継がれる理由がここにもある。2025.10.12 02:52
9月7日 主日礼拝9月7日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録17章1-9節テサロニケで伝道するパウロ。ここでもパウロはユダヤ人の反感を買う。パウロを捕らえようとするユダヤ人たち。だがパウロを見つけられない。その腹いせにパウロと親交のあったヤソンを捕らえて当局者に差し出す。何もしていないヤソン、すぐに釈放はされる。その間にパウロは次の町に辿り着くことができた。ヤソンがしたこと。パウロたちの身代わりになった。身代わりのモチーフ。聖書には頻繁に登場する。身代わりとは何か。私が寿司が食べたいと考える。魚屋、寿司屋に行けば、寿司は手に入る。なぜ手に入るのか。誰かが私の代わりに漁をしてくれたから。誰かが私の代わりに調理をしてくれたから。誰かが包丁を造ってくれた。誰かがお皿を焼いてくれた。誰かが、誰かが、誰かが、誰かが、私の代わりに働いてくれたから今、私の前に私の欲しいものがある。身代わり、代理。それがあって世界は回っている。誰もが身代わり、代理を拒めば世界は回らなくなる。誰も漁に行かない。誰も、ものを作らない。代理するものがいなくなれば私の欲しいものは私が作らなければならなくなる。それはこの世界のほとんどのものが消えていくということ。誰かが私の代わりをしてくれる。私も誰かの代わりをする。そうして世界は回っていく。だが、ただ誰かの代わりをすれば世界を本当に回すことに、未来を作り出すことになるのか。弱い国が強い国に支配されている。弱い国の代わりに戦おう。泥棒が体力がなくて困っている。2025.10.12 02:51
8月31日 主日礼拝8月31日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章35ー40節パウロのフィリピでの出来事。この物語は読者に何を伝えているのか。パウロは女占い師に貼り付いていた悪霊を追い出す。これによって金儲けができなくなった主人たちがパウロを捕らえ高官に引き渡す。主人たちとは何者か。経済を大事にしている者。パウロが投獄されていた時に地震が起こる。牢の扉が全部開き、それを知った看守は囚人が逃げ出したものと思い込み自害しようとする。パウロによって全員が残っていることを知らされ、パウロに教えを請いたいと願い出る。看守とは何者か。仕事を大事にしているもの。高官はパウロたちを釈放することに決め、それを彼らに告げる。ところがパウロは自分はローマの市民権を持つものだと伝える。驚いた高官はパウロのところに飛んできて詫びを入れる。高官とは何者か。権力、秩序に忠実なもの。経済、職務、権力、秩序を大切にする。何も悪いものではない。私たちと同じ価値観を有している者。これに対してパウロとは何者なのか。これを考えるためのひとつの手がかり。パウロに追い出された悪霊。悪霊は何も抵抗をしない。決まっていること、変わらないことを分かっている。無駄な抵抗はせずにさっさと退散をする。悪霊は知っている。変わらないものがあることを。経済、職務、権力、秩序を大切にしている者たちの共通点は何か。世界は怖いと思っている。怖い世界を生き抜くために経済、職務、権力、秩序にしがみつく。世界は努力次第で変わると思っている。パウロの持っているローマの市民権。この後、パウロはまたエルサレムで捕らえられる。その際にもまたムチで打たれそうになる。その時、パウロは今度はムチで打たれる前に市民であることを告げる。フィリピではムチで打たれてから。エルサレムではムチで打たれる前。なぜ市民権を公表するタイミングが違うのか。理由は定かではないが、分かっていることはパウロは市民権を公表する時期を定めていない。市民権を自分の権利として固辞しようともしていない。どうでもいいものとすら思っている。自らの生い立ちをパウロ自身が語る言葉が手紙の中に残っている。立派な肩書、それを列挙した後にパウロはそれはどうでもいいものと思っていると語る。なぜパウロは権威に執着をしないのか。知っているから。世界は変わらないと知っているから。世界を造った神は、この世界を「良い」と言った。世界は良い。それは変わらない。ならばなぜ、何かにしがみつく必要があるのか。この物語は読者に問いかけている。世界には変わらないものがある。それを求めているか?2025.09.05 08:03
8月24日 主日礼拝8月24日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章25ー34節ルカは物語を通してどのような世界を描こうとしているのか。言われなき咎で牢屋に入れられたパウロとシラス。夜に大地震が起こる。牢屋の扉は全て開く。看守は囚人は全員逃亡したものと思い自害しようと短刀を抜く。その時、パウロは声をかける。「皆、ここにいる」と。「ない」と思っていたものがある。これが本当の世界なのか?看守はパウロに願い出る。「救われるためにはどうすればいいか」自分の知らない世界、本当の世界で生きるためにはどうしたらいいのか。パウロは答える。「主イエスを信じなさい」主イエスとは誰か。この直前の物語。パウロは「イエス」の名によって悪霊を追い出している。同様の場面は他にもある。イエス自身が悪霊を追い出してもいる。その顛末は全て同じ。イエスの前から、イエスの名前の前から悪霊は抵抗することなく退散している。歯が立たない。勝負は見えてる。決まっていること。変わらないこと。人は「ああすればこうなる」と因果律を仕立てる。因果がうまく回るように準備をする。不足がないか整えていく。自分たちはいつも足りない状態。準備怠りなく足りないものを補っていく。点数、経済力、仲間、地位、兵器。他と比べて足りないものがあればそれを修正していく。それがこの世界を生きる術。この世界では足りないものがあると敗北する。努力次第で変わる世界。努力をしなければ負けていく世界。世界を変えるのは自分次第。それは本当の世界か。ルカは問うている。楽園で蛇に唆された人間。足りないものがあると言われた。「足りない」は蛇の言葉。神の言葉ではない。ならば神の言葉とは何か。イエス・キリストとは誰か。十字架にかかり、命を落とす。命をなくしたもの。命が足りなくなったもの。そのイエスは三日目に甦る。命を持っている。なくしていない。失っていない。始めからあるものは変わらずある。神は世界を造った時に言った「これで良い」と。変わらない、決まっている。「良い」がこの世界。足りないものは何もない。なくても良いもの、持っていても使い道のないものを人は欲しがるから「足りない」との錯覚に陥る。この世界は錯覚を続ける場所ではない。本当とは何か。真実とは何かを求めるところ。ないと思っているものはある。私は全てを持っている。変わらないものがこの私に備わっている。私自身。それは変わらず永遠へとつながっている。世界はどういうところか。変わらぬ私を知るところ。そこに世界の真実がある。2025.09.05 07:24
8月17日 主日礼拝8月17日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章16-24節フィリピの町でパウロは捕らえられる。女占い師。この者がパウロにつきまとい、彼の行動を妨害する。たまりかねたパウロが占い師に取り付いている悪霊を追い出し、黙らせる。この占い師にはこの者を金儲けに利用していた主人たちがいた。パウロの悪霊払いによって占い師が静かになったことで金儲けが出来なくなった。怒った主人たちがパウロを捕まえ役人に引き渡す。ありもしない事実をでっち上げ、罪をなすりつける。パウロ、そしてイエスもなぜ、人々に反感を買うことが予想できるのに、それを実行するのか。迫害の中になぜ自ら進んで飛び込んでいくのか。ひとつの手がかり。悪霊払い。パウロが行ったこと。イエス・キリストの名によって悪霊を追い出す。イエスもかつて同じように悪霊を追い出してきた。これらの出来事に共通していることが悪霊はすぐに退散をすること。反抗したり、戦いを挑んだりはしない。すぐに負けを認めイエスの言いなりになる。悪霊はイエスとは始めから勝負にならないことを知っている。勝負はついている。人間はどうか。イエスに、パウロに逆らい、反抗し、その命までも奪おうとする。悪霊とイエスの関係性。人はそれを知らない。人の知らない関係性がある。世界がある。私たちの知らない世界。この世界にはそれがある。勝負がついている世界。変わらない世界。パウロ、イエスはそれを知っている。なぜ、迫害が待ち受けているところに飛び込んでいくことをしたのか。知っているから。変わらないものが何かを知っている。水は100度になれば気化する。ニュートン力学。相対性理論。量子論。人は一瞬、これが世界の変わらないものを見つけてきた。それでも、本当に変わらない世界はもっと先にあると知らされる。変わらないものがある。勝負のついているものがある。それを私たちは求めている。聖書が語る変わらないもの。創造神話。世界は良い。それは変わらない。変わらないものがある。それを見失ってしまうのは私たちが「変わらないもの」から遠ざかって行くから。自分には足りないものがある。知識の木の実が必要。自分以外のものを貼り付けると変わらない世界から遠ざかっていく。信じる。自分に問う。悔い改めて福音を信じる。神の造られた世界は決まっている。その世界を生きているとの自覚を私たちは持っているのか。2025.09.05 07:24
8月10日 主日礼拝8月10日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章11-15節自分の計画、予定が思い通りにいかない。パウロたちは伝道旅行で何度も経験をした。使徒言行録は何を描こうとしているのか。世界を描く。この世界は自分の思い通りになるものではない。自分が正しいと思っているのと、同じくらい、私の正しさと違うものを正しいと信じているものがいる。あたかももう一つの世界があるかのように、この世界には別のものがある。異邦人世界。そこはユダヤ人のパウロたちにとっては別の世界。別の世界だからこちら側のものが通じるとは思っていなかった。神様、イエス様の言葉。こちらの世界観が通じるとは思っていなかった。ところがそれが通じた。こちらとあちら。それが接点、共有力があった。私たちの現代でも同じことが日常的に起こっている。個人から始まり、組織、民族、国家、ことらとあちらは別の世界だと思い込んで生活をしている。使徒言行録の語る物語。その異なる世界はいずれ必ず直面しなければならない。どういう形にせよ、異なる世界は必ず接触する。私たちはその時どうすればいいのか。新しいものをなんでも受け入れればいいのか。あるいは自分たちの価値観を押し通せばいいのか。怒り、衝突、戦争は異なる世界との接触の緩和性の欠如から起こる。異なる世界は本当に異なるものなのか。ペンテコステの朝に起こった出来事。使徒たちが外国の言葉を語り出した。使徒たちは外国の言葉を聞き分けることができた、ではない。自分の言葉として、自分の体で、外国を表現した。自分と異なるものに自分自身がなった。この使徒たちがやがて異邦人伝道を展開していく。外国を体の中で、自分で経験をしたものたちが異邦人伝道、異なる世界と接点を結んでいく。異なる世界とどのように接触をすればいいのか。ペンテコステの朝に使徒たちに降った聖霊。新しいものではない。人類の初めに神から吹き込まれたもの。すでに備わっているもの。すでに私にあるものを思い出す。懐かしさ、本当の私が親しみを覚えるもの。文化、風習、富、名誉、社会の中で自分が身につけたもので判断をするのではない。本当の自分。この世で作られた自分ではなく、神が造った本当の自分で世界と向き合う。そこにあるものは異なるものか。私の中にもあるものか。私自身か。異なる世界とパウロたちは直面する。その伝道は自らを知る、自らを思い出す旅でもある。この世界は本当に異なるものの集合体なのか。それとも同じものを持っていながらそれを忘却してしまっている群なのか。自らに問えば自ずと世界の姿を見ることができる。2025.09.05 07:23
8月3日 主日礼拝・平和聖日8月3日 主日礼拝・平和聖日礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録16章6ー10節夢とはなんでしょうか。眠っている時に見る夢。将来を語る希望を語ることも夢と言われます。全く違うところにあるものですが同じ表現「夢」で表されます。夢てなんでしょうか。パウロは夢を見ます。その夢を信じて出かけていきます。異邦人のところに出かけていく。少し前には考えられなかったことです。神様のことが分かるのはユダヤ人だけ。神様を信じられるのはユダヤ人だけ。みんなそう思っていました。ところがペテロがローマの軍人コルネルウスに神様のことを話す。イエス様について話す。すると彼らは皆、信じた。異邦人にも神様への信仰が生まれる。ここから教会の異邦人への伝道が始まります。これに伴って、ある議論が生まれます。異邦人にも律法、ユダ人が守っている規則を守らせるべきだ、という主張し出すものが出てきます。ペテロ、パウロはこれに反対をします。神様を信じることと規則は関係ないと。議論の末、異邦人へ律法を強要することはなくなりましたが、それはイエスを信じる群がいよいよユダヤ教と袂を分かつことでもありました。律法を重んじないものたち、異邦人と関係を深めていく。それはもはやユダヤ教では容認できないものになっていました。ユダヤ教から離れていく。教会が生まれてきました。大きな変化が起こりました。大きな変化。そのきっかけになったのはペテロのローマの軍人への訪問です。ペテロがそこを訪ねた理由、それは夢を見たからです。夢を見て、そこに行けと言われたのでペテロは彼らに会いました。きっかけは夢です。夢てなんでしょうか。イエス様が生まれる時、マリアの赤ちゃんが誰の子かわからない時、別れようと思っていたヨセフがマリアと結婚をします。イエスの父親になります。ヨセフにその決断をさせたもの、それは夢を見たからです。イエス様の誕生、その大きな変化があるところにも夢が働いています。夢てなんでしょうか。寝ている時に見るもの。自分の未来について思い描くもの。その二つが何故夢という同じ表現で括られるのか。夢、それは自分以外には分からないものだからです。自分にしか分からないもの。自分にか見えないもの。誰も、それを一緒に見たよ、とは言ってくれないもの。自分だけのもの、それが夢です。聖書では大きな変化がある時「夢」が登場します。夢、それを見たものだけ、それを信じたものだけ、その一人が行動を起こす。その時、世界は動き出します。宗教の話、キリスト教の話ではありません。人類の話です。現実の世界の話です。世界が動く時、変わる時、夢がそこには必ずあります。今日は平和聖日。平和を覚える日です。なぜ戦争が起こるのか。平和が崩れるのか。みんなが怖いという。みんなが悪いという。みんながそうだという。みんなが、みんなが。みんながという時、「夢」はどこにありますか。夢がなくなった時、戦争が起こります。世界が怖い。当たり前です。誰もが思います。でもそこで創世記の神話「世界は良い」。この神話を誰もが「そうだ」とは言わない。でもそれが私の夢ならば、それを信じるしかない。イエス・キリスト。誰からも「そうだ」と言ってもらえず十字架で生涯を閉じた。ただイエスは自分の信じた道を歩んだ。夢を信じた。神は世界は良いと言われた。それは私の夢も良いと言われていること。ならば何故、夢を捨てるのか。みんなの中に埋没、葬り去るのか。私の見た夢。私しか知らない。私しか見えない。みんなと違うから間違っているではない。私にしか分からない。それこそが大切。私が見たもの。それを信じる。夢を信じる。世界を未来につなげていく。平和を作っていく。夢。この世界に掛け替えのないもの。私も同じ。あなたも同じ。世界に一つだけのもの。一つだけのものが世界に命を吹き込んでいく。2025.09.05 07:22
7月27日 主日礼拝7月27日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師会議の決定と言えば絶対的なもののはず。ところがパウロはそれを軽んじるかの行動をとる。会議とパウロ対立しているのか、それとも他に何かあるのか?ーーーーーーー使徒言行録16章1-5節エルサレム会議とはなんだったのか。会議で一致を見る。その会議の直後、パウロとバルナバは仲違いをする。会議で異邦人には規則を押し付けない。割礼を強要しない。その決定の直後、パウロはテモテに割礼を受けさせる。パウロは会議を無視したのか。軽んじたのか。パウロの言動。おそらくそれはエルサレム会議の内実を表したもの。エルサレム会議で決まったこと。それをパウロは体現している。割礼を強要しない。割礼を勧める。相反することが両立する取り決め。何が決められたのか。パウロ、バルナバ、彼らの行動のどこが会議を引き受けたものなのか。パウロ、バルナバ、自分の信じたことを行う。パウロはテモテに割礼を勧める。自分の信じたことを行う。エルサレム会議で決まったこと。異邦人に何も強制しない。それは表現を変えるなら「自分で決めろ」過去の習慣。規則、風習、常識引き受けるも、批判するも、自分で決めろ。私たちはなぜ自分で決めることに戸惑うのか。規則に従うことが大事だと考えるのか。怖いから。失敗したらどうしよう。責任が自分に及んだらどうしよう。この発想に「世界は良い」との世界観はあるのか。世界が良いと信じていないから失敗、責任が怖くなる。世界が良いと信じているなら失敗も、責任も大事ではない。エルサレム会議、パウロたちに「世界は良い」を教えた方。イエス・キリスト人々の誤解、嫉妬、企み、その結果、命を落とす。勘違いで死なせてしまった。殺さなくていい方を殺してしまった。その三日目にイエスは甦る。大いなる勘違いはそれが結論ではない。復活がなければ取り返しにつかないものがある。その責任は自分で負わなければならない。失敗は一生自分が背負わねばならない。だがそれは真の世界ではない。失敗、罪、その次がある。世界は良い。それが真の世界。ならば他人に、過去に、何かに怯えて生きることはない。自分で決められる。世界を信じて、自分で決める。エルサレム会議で決まったこと。矛盾、整合性、前例そんなものはどうでもいい。自分で決めろ。教会はこの会議の決定から生まれた。私たちの教会は会議の決定を継承しているか。2025.09.05 07:21
7月20日 主日礼拝7月20日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録15章36ー41節異邦人に対して規則を押し付けない。一致を見たエルサレム会議。会議の後、教会は再び異邦人伝道を開始しようとする。パウロとバルナバをその勤めに任じる。その矢先、パウロとバルナバの間で衝突が起こる。バルナバがマルコという若者を帯同しようと提案する。これに対してパウロは反対する。かつて一緒に働いていた時に逃げ出した前歴がある。マルコはこの勤めにむいていないと。バルナバとパウロの間に激しい論争が起り、ついには決別をするに至る。それぞれバラバラに伝道に出かけていくことになった。一つになったエルサレム会議。その直後に主力の二人が分かれ分かれになっていく。誰もが望んでいたものではない。積極的に行いたいものではなかったはず。それでも分裂、分かれは起こる。どちらが正しく、どちらが間違っているのか。白黒、善悪、優劣私たちは分かれが起こった時、そういう切り分け、整理を行いたくなる。だが使徒言行録はそういう判断をするような材料は提示していない。実際、教会は分裂を繰り返してきた。東方教会、西方教会に分かれる。宗派、教派が生まれる。カトリック、プロテスタントに分かれる。教会は分かれることを繰り返してきた。どちらが正しく、どちらかが間違っている。そういう判断、評価もできるかもしれない。だがその評価を求める前に私たちは歴史を視野に入れる必要がある。教会が今日世界に広がっている。世界中の至るところに教会がある。どうしてあるのか。分かれた教会がそれぞれに歩んで行って世界に広がった。なぜ広がったのか。その原因は何か。分かれたから。分かれたからこそ教会は世界に広がった。教会だけの話ではない。私たちの生活で、家族でも、学校でも、会社でも、私たちは分かれを経験する。それは辛く、悲しいものがほとんど。だが、それが結論、最後の形ではない。その先がある。教会は分かれて、辛い思いをして、時には憎しみや怒りを伴いながら広がっていった。次の教会の形を作り出していった。人の思いでは否定したくなる分かれ、それも神の御手の中にある。バルナバと決別をしたパウロ。神を宣べ伝えるという同じ目的を持っていながら、どうしても一致することが出来なかった。おそらく怒ってバルナバと決別をしたのであろう。このパウロが晩年に記した手紙。フィリピの信徒への手紙。その手紙の中でパウロは語る。牢獄にいる私を励まそうとしてキリストを伝道しようとするものもいる、逆に私を否定するようにしてキリストを宣べ伝えるものもいる。だが、それがなんだというのか、どちらにしてもキリストが宣べ伝えられているのだからどちらでもいい。生きるも死ぬもどちらでもいい。富んでいても貧しくともどちらでもいい。どちらでもいい。手紙の中でパウロは「どちらでもいい」を繰り返す。どちらから行っても行くべきところにはちゃんと行ける。この道しかない、私しかない、私が正しいそんなことはどうでもいい。どちらでもいい。どちらも正しい。どちらから行っても世界ちゃんとしたところに辿り着ける。世界はそういうふうに出来ている。神が造った世界とはそういうところ。そういう世界に私はいる。どちらでもいい。信じられるか。2025.09.05 07:20