本多記念教会

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相転移

2018年9月9日使徒言行録13章33-52節  使徒パウロが回心してから始めての説教をする。自分が大切にしていること。皆に分かってほしいこと。主イエスの復活は私たちの罪の赦しを表している。「罪の赦し」とは何か。「罪」には二つある。私が犯した「罪」。人から私が被った「罪」。 私が犯した「罪」。公になってしまったら「後悔」という心の動きになる。どうしてあんなことをしたのか。どうしたら信用を回復できるか。 まだ知られていない「罪」。それをどうしたら隠し通せるか「不安」「心配」が心を覆う。 人から被った「罪」。私が正しいと自覚すればするほど「怒り」がこみ上げる。私は正しい。あの者はそれに気付きもしないで人を蔑ろにする。 「後悔」「心配」「不安」「怒り」。罪の周辺で発生する心の動き。ここには同じ働きがある。罪の周辺をウロウロして罪から離れられず、答えの見えないものを何度も何度も繰り返す。主イエスは十字架に架けられた。無理解なものたちから「罪」を被った。父なる神は怒ってよかった。怒っていつまでも「罪」の周りで人々を呪ってもよかった。心が止まって凍り付いてもおかしくなかった。「罪」の周りでは心が止まる。止まって動かなくなる。罪の周りでは心が死んでしまう。主イエスは罪のゆえに墓に葬られた。だが、三日目に墓から出てきた。止まっていない。固まっていない。 神は止まらない。罪に覆われても止まらない。罪の支配から放たれてくる。それを「赦し」という。私は「赦される」「赦せる」。だがそれを信じられないユダヤの民は怒ってパウロを殺そうと企てる。心が固まり「赦し」が信じられない。「赦し」が世界にある。それを信じる者に敵はいない。パウロ達は異邦人のところに行くと宣言する。「赦し」がある。ならば人の心は止まらない。動き出し、希望へと進んで行ける。心の本当の在り方を思い出したい。 

すべてはここに

2018年9月2日使徒言行録13章13-31節  本日は「振起日」。夏から秋に向けて気持ちを新たにする日として守られている。本日の聖書の箇所。アンテイオケの会堂長がパウロに皆を励ます言葉を語って欲しいと依頼する。新たな気持ち、振起日と重なる求めでもある。その求めに応じてパウロはイスラエルの歴史を語り出す。この時、彼らにとって自国の歴史とはいかなるものであったのか。かつては確かに神に選ばれ、守られた時を持った。ところが今やローマ帝国に囲まれ、かつてあった栄光は過去の遺産となった。過去に何の意味があるのか。神の業に何の励ましがるのか。未来は暗い。時間は暗い。歴史の中で働いた神は今の私たちとは関係がない。その彼らに向かってパウロは歴史を語る。 パウロは洗礼者ヨハネについて語る。ヨハネは「自分より後から来る方は私よりすぐれている」と言う。主イエスが苦難を味わったのは言葉が実現するためだったと言う。ここにはある共通点がある。ヨハネの言葉は先を予見する言葉。主イエスは言葉の実現。その「言葉」とは未来について語られていたもの。パウロがここで取り上げているものは「未来」について語られたものは実現しているとの指摘。さらにパウロは主イエスについて「約束」に基づいて現れた方と言う。「約束」とは何か。約束は必ず未来と結びついている。 パウロの考える歴史とは何か。未来が実現してきたものが歴史。未来に進むことは五里霧中を進むことではない。未来はいつでも神の御手の中に置かれていた。不安、絶望、私たちは味わう。未来に進むことに意味を見出せないこともある。その私たちにもパウロは語りかける。先に進め。そこには神の約束がある。約束の内容を私たちは知らぬともよい。否、知りえない。約束はいつでも私たちの思いを超えている。未来に進むことは無意味ではない。未来は私を待っている。この向こうに何かある。振起日に心に留めたい。 

私たちの喜びの理由

2018年8月26日森下静香信徒伝道師コリントの信徒への手紙一 1章18節~31節十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものだが、私たち救われる者には、神の力である。十字架の言葉。ここでの言葉は他の翻訳では、「説教」、「メッセージ」、また韓国語の聖書では、「道」とも訳されている。単なる言葉以上の広い意味を持つ。十字架はイエス・キリストがその上ですべての人の罪のために、また永遠の命を与えるためにただ一度死んでくださった十字架を指す。滅んでいく者とは、イエス・キリストの十字架の言葉を拒む者。それに対して、救われる者とは、十字架の言葉を信じ、受け入れ、救いをいただく者のことである。 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める。しかし、十字架の言葉を信じ、受け取る者はどこの国の人であっても、キリストを伝える者となる。キリストはユダヤ人にとっては、つまずきとなるもの、ギリシャ人にとっては愚かなもの、しかし、召された私たちには、神の力、神の知恵である。私たちは神から力となる言葉、神の力そのものをいただくことができる。パウロはそれを身をもって体験した。 パウロがコリントの教会の人たちに思い出させたこと。それは神によって、教会の人々がキリスト・イエスに結ばれていること。キリスト・イエスの中にある。そのキリストは、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。そのことが伝えられ、パウロと同じように私たちがその力を体験するとき、私たちは十字架の言葉であるキリストを伝える者となる。 しかし、どうやって伝えていくのかが問題となる。明日から日本のメソジスト派の教会が集まり毎年行われる更新伝道会が青山学院で持たれる。私たちには十字架の言葉を伝えていく使命がキリストから託されている。言葉で伝えること、そして全人生を通して十字架の言葉の力を伝えることが私たちの使命である。パウロがコリントの教会に思い起させたことの中に、私たちの真の喜びの理由がある。

和解の喜び

2018年8月19日森下 滋 伝道師コロサイの信徒への手紙1章14‐23節使徒パウロは言う。「福音の希望から離れてはならない」。私たちは既に救い、即ち罪の赦しを与えられ、それを持っている。もはや罪による死の支配下にはいない。キング牧師は語った。「すべての丘と山が低くなり、荒地が平原となり・・・神の栄光が姿を現しすべての人間がそれを一緒に見ることを、私は夢見る」と。  和解の日は近づいている。あらゆる国家や人種間、友人や家族との問題。すべての壊れた関係がもとに戻ろうとしている。神がすでに行われた和解の故に私たちにも和解を与えられる。しかしこれを信じられないで苦しむ者がいる。「あなたの隣人を愛せよ」「自分の敵を愛せよ」とは主イエスの最大の教えである。しかし自分の努力では決して不可能である。14節でパウロは言う。「私たちは既に救われている」。誰によって?御子によってである。では御子とはいったいどなたなのか?御子とは見えない神のイメージ。この世界は父なる神が御子において創造された、完了した創造である。昔も今も永遠におられる方。彼の体は教会、私たちはその器官である。彼は死者の中から復活した。ゆえに私たちが従う案内人となった。彼の死は私たちすべての新たな始まりとなった。神は御子の死を喜んだ。そして御子に充満を冠として授けた。神の目的は御子の十字架によりこの世に「平和を創ること」である。十字架を通して天と地は神と和解を行った。私たちはかつて悪行(ポルネイア)の中にいた。悪行はなにも性的・倫理的悪口ではない。神を知る、御子を知るという本当の知識に対して敵対したことである。終末において本当の和解が起こる。新しい創造では時と出来事が一致する。この時この福音を拒む者が現れる。御子ではなく自分を推薦し、真の権威を冒涜する者である。私たちは、今御子の御前に立てるであろうか?悔い改めよう。そこには裁きはない。主イエスも使徒パウロとキング牧師も死なれたのは何のためか。神と私たちが和解して平和を創り、人と和解し、喜びの中で生きるためである。主イエスの十字架は私たちの命と魂が喜びの歌を歌うためなのである。信じて受け入れて、悔い改めよう。そして喜びを伝える者とされよう。

繰り返される恵

2018年8月12日使徒言行録13章4-12節使徒言行録、使徒、聖霊の働きを記す物語。聖霊は何をなすのか。教会を迫害していたサウロはダマスコに向かう途中、主に出会い、目が見えなくなり回心へと向かう。そのパウロが実質、初めての宣教活動をしたものが今日の聖書の箇所。パウロのデビュー戦。相手は魔術師。パウロは厳しい言葉を発し批判する。その結果、魔術師エリマは目が見えなくなる。物語は読者に促している。サウロの回心と似ている、同じ展開だと。パウロの回心と彼の宣教の始まりが似ている。ここにどんなメッセージがあるのか。 パウロと対峙している者、エリマ、この直前に登場したヘロデ、彼らは怒ったり、苛立ったりしている。エルマは総督が自分から離れることを警戒しパウロに敵対する。ヘロデは自分に逆らう領土に苛立つ。彼らは同じ世界観を持つ。油断すると、闇が私を襲ってくる。世界は闇でできている。かつてのパウロも同じ。律法を守っていないと闇が私を襲う。だがパウロはある時、知らされた。神と闇とどちらが大きいのか。闇の中で一緒に戦ってくれるのが神ではない。闇をも覆っているのが神でないのか。世界は暗くない。世界は明るい。パウロは自らの回心と同じことを引き起こす。エラーをした野球選手。その直後、ナインに「エラーをするな」と語ろうものなら「自分を棚に上げて何を言うか」と批判される。本人も語れない。戦争体験者が、自らの経験を語れない。隠しているのでない。語れないでいる。心に傷があるから。傷に触れることを人は生理的に拒絶する。パウロは神のためにしていると思い込んでいたことが、実はとんでもなく的外れだったと発見する。恥ずかしく、落ち込む。心に傷を負う。そのパウロが自分の傷に触れる言動を大胆にする。聖霊はパウロに何を引き起こしたのか。なぜ自分の過ちを平然と語れるのか。パウロは自分を赦している。自分を裁き続けていては傷を語れない。世界が暗いと思っていては危害を加えてきたものを赦すなど愚の骨頂。世界は明るいと信じれば赦しは生まれる。聖霊は赦しを生み出す。神の造られた世界を信じる希望を人に与える。聖霊は人に愛を実現させる。

達成の先

2018年8月5日使徒言行録12章20節-13章3節
 使徒言行録は聖霊の働きを記す物語。聖霊は何をなすのか。
 ヘロデ王は念願の「シドン」と「ティルス」の街を手に入れた。王様一人の願いではなく、国をあげての達成したかった目的であった。王が演説をした時、民は王を「神だ」と言って崇めた。それほど偉大なことをなした王様。だが、その王は演説の最中に神に裁かれ息絶える。今日は「平和聖日」。平和を祈る日である。平和を求める。大切のこと。平和はどのように実現されるのか。かつて戦争があった。世界大戦、それ以後の争い。教会の歴史では十字軍も忘れてはならない戦争。戦争は「正義」のため、「平和」のためと言ってなされる。達成したかった目的。その目的を手に入れる。その結果、戦勝国は、世界はどうなったか。ヘロデのように息絶える無残なものになっているのではないか。目的を設定し、それを獲得する。人が誰しも思い描くロードマップ。だがそれを実現したところで無残な結果にしかならない。聖書が語り、歴史において繰り返されてきたこと。どうすれば平和は訪れるのか。ヘロデ王が死んだ後、聖霊が教会に臨む。「バルナバとサウロを派遣しろ」と。この後、パウロの伝道旅行が始まる。ヘロデが達成目標としていた「シドン」と「ティルス」が使徒言行録において再び登場する。特別な街としてではない。パウロ達の伝道旅行の経由地点として記される。かつてヘロデが目的としていたもの。それが使徒達にとっては通過点に過ぎなくなる。 地理の話でない。人の心の事柄を語っている。人にとっての目的。そこを最終地点としてもヘロデのように朽ちていくだけ。聖霊はパウロをいざなう。人が目的としていたものを通過点にしてさらに遠くへ。平和は人が目的を設定してたどり着けば達成されるものなのか。人の想いを超えて、ただ聖霊に導かれて進めるものなのか。人が、ヘロデが達成しようとしたものはエルサレムから北へ200キロ程度の世界。聖霊に導かれた教会はローマへ、更には世界中へと進んで行った。聖霊は何をなすのか。人の想定より、もっと遠くへと私たちを招く。「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:10)平和を実現する者聖霊が生み出していく。 

予定とちがう

2018年7月29日創世記27章1−17節族長イサクの家に生まれた双子エサウとヤコブ。弟のヤコブが兄のエサウを出し抜いて家に伝わる「祝福」を奪う物語。聖書に記されている物語ではあるが、これは私たちが単純に手本にできるものではない。手本にはできないが、私たちがよく考えなければならない内容を持っている。何をこの物語から考えなければならないのか。物語は年老いたイサクが自分の預かっていた「祝福」を長子エサウに譲ると決意したところから始まる。エサウは父からの祝福を受けるべく父の喜ぶ料理を作るため狩りに出かけていく。その留守中、母親のリベカに促されヤコブは兄のエサウに成りすます。年老いて目が見えなくなっていたイサクは少しの疑いは持つもののまんまと騙されてヤコブに祝福を与えてしまう。エサウが狩りから帰ってきて、イサクとエサウは祝福がヤコブに奪われたことを知る。怒りを覚えたエサウは父の喪に服す時が来たらヤコブを殺そうと決意する。この物語が示している問題とは何か。双子がいる。ひとつの祝福がある。それがこの物語の材料。これは私たちの日常にある問題。人数に対して恩恵が少ない。「定員」「資源」。誰しもが欲しがり、必要としているが、それがすべてのものに行き渡らない。「入試」「入社」「昇進」をめぐって選抜試験があり、「石炭」「石油」「レアメタル」資源をめぐっての競争がある。恩恵は限りがある。 イサクの家族はこの「限りがある世界」の中で争った。限りがあるから人に渡すわけにはいかない。限りがあるから私が獲らなければならない。たった一つの「祝福」を獲得したヤコブであったが結局は家から逃げ出さなければならなくなる。逃走をしているヤコブがある晩、夢を見る。天と地上を結ぶハシゴがかけられ、そのハシゴを天使が上り下りしている。聖書をヤコブの体験を通して私たちに問うている。恩恵は有限である。それを獲得すれば幸福になれる。それはこちらの世界がしつらえた価値観。この世界は別の世界と繋がっている。「限りがある」に執着する価値観に対し「永遠」を想定したらどうなるのか。敵を作り出すことではなく、愛を生み出せるのではないか。物語は私たちに問うている。 

導きと共に 

2018年7月22日使徒言行録12章1—19節 教会の始まり。苦難が伴う歩みだし。ヘロデ王は教会の者ヤコブを殺害した。それが民に喜ばれたと分かると増長する。教会の迫害を政策的に実行する。結果、教会の中心人物ペテロが牢に捕らえられる。明日には処刑されようとする前の晩、鎖に繋がれたペテロの傍で声がする。「私について来い」。鎖に繋がれていたことも忘れペテロはその声に従い牢を出る。街の通りまで何事もなく進んだ時、声の主は見えなくなる。ペテロはそれが天使だったと気づく。仲間の家にたどり着き扉を叩くが開けてもらえない。扉の小窓からペテロを確認し仲間に告げても誰も信ぜず閉じこもる。それでもしつこく扉を叩き続けたペテロの努力の甲斐あってようやく家に入ることがかなう。 一見ユーモラスな物語だが、大切なことを私たちに伝えている。喜びがすぐそばに来ている。見えないギリギリのところに来ている。開けさえすれば良いのにそれを拒む。過去にそんなことはなかった。私の経験にはない。人は過去に縛られると今起こっている素晴らしいことを見逃してしまう。このペテロの帰還の物語とよく似た物語を読んだ覚えがある。使徒言行録の作者の意図もそこにある。よく似た物語。主イエスの復活の物語。なぜ似ているのか。そこにメッセージがある。復活はイエス様だけの不思議な超常現象か。それを崇めることが信仰か。ならば信仰は過去に執着すること。「今」が見えない行為になる。信仰は神の業を標本にして眺めことではない。今、動く活ける働き。主イエスの復活とペテロの帰還は酷似している。何が語られているのか。復活は過去の話ではない。主イエスの後にも起こる。復活はペテロの後にも起こる。すなはち、その後も、今も起こる。復活は過去のものではない。今、起こっていること。
 生きているのか死んでいるのか分からない。死んでも何も感じないのではないかと思えるほど心が真っ暗になることがある。誰もそこには手を差し伸べることが出来ない孤独の中に閉じ込められることがある。私は終わりなのか。否、復活がある。土くれに神の息が吹き入れられ土は人になった。私は神の息をあずかっているもの。今、活ける神は私自身を突き動かす。新しくなれる。それが人の日々の歩み。 

闇からの救い

2018年7月15日 森下滋伝道師 コロサイの信徒への手紙 1章9−14節 闇とは何か。神は創世記1章において光を創り闇と区別された。この世界が初めは闇ではない。しかし闇は神によって良しとはされなかった。私たちの闇とは何か。分かってはいるが抗えないものである。誰の心にも闇は有り、また自分はその事を知っている。真面目な人が加害者になる事がある。アウシュビッツの虐殺も、隠れキリシタンの弾圧も、職務に真面目な者が関わっている。しかしこれを彼は真面目だったと正当化出来るか。私たちは自分の中に巣食う闇とどう対峙すれば良いのか。パウロはコロサイの人々が神の恵みを聞いて真に悟った事を伝え聞いた。だからパウロは彼らのために絶え間なく祈っている。必ず神の霊が充満してあらゆる知恵と理解が与えられる。主の価値の中を喜んで歩く時に実が結びさらに知識が増える。同様に喜びを持って耐え忍ぶ時に神の力が働く。この時もまた神が知識を与えてくださる。そして私たちは感謝するのである。私たちは父なる神から財産相続人として招かれたのであるから。神が私たちと関係性を持とうとされた。そして神の家族として下さった。神は私たちを闇の力からすでに救い出して下さった。愛する御子イエス・キリストの支配下において私たちは守られている。闇の力は単なる暴力的な力だけでは無い。闇の権威として迫り来る。権威とは何か。従わざるを得ず、世界が跪く権威である。見かけは普通でも、闇の権威を行使する者が存在する。闇は今もこの世にある。しかし闇の権威に屈してはならない。神は御子によって私たちを闇の権威から買い戻し、そして闇を自分の主人としていた罪を全て赦してくださる。御子はこのために自らの命をかけて十字架で死なれ、自らも闇の中から復活された。私たちはキリストと共にいる時に闇の権威に打ち勝つ。真面目な人が闇の権威に屈している今の世界。私たちは聖霊を受けよう。聖霊を求めよう。聖霊は闇を照らす世の光。真の知識として与えられる神の力、いや神ご自身である。闇を恐れず、闇の権威に支配される事を恐れよう。私たちは御子によって既に救われ、闇に打ち勝っている。

苦難の先

2018年7月8日使徒言行録11章19-30節使徒言行録の記す教会の記録。教会の始まり。そこでは聖霊が働いている。聖霊は何をしたのか。 ステファノの殉教をきっかけに教会への迫害が始まった。教会が混乱する。隠れるもの、逃げるもの、信仰を捨てるもの。様々な反応を引き起こす。その中のある者たちはエルサレムを離れ遠い北の町アンティオキアに避難する。最初、何も語らなかった彼らはではあったが時期を見てギリシア語を話す人々に福音を宣べ伝えた。その結果、多くのものがイエス・キリストを信じるようになる。その出来事を聞いたエルサレム教会はバルナバを派遣する。バルナバはその際サウロを伴いアンティオキアに入る。バルナバ、サウロ、この二人の働きにより教会はますます盛んになる。ちょうどその頃アガポという霊に満たされたものが大飢饉の起こることを予告する。果たしてその通りに実現した。アガポの予告を聞いていたアンティオキア教会には備蓄があったが、エルサレム教会は飢饉の被害をそのまま被る。後からできたアンティオキア教会であるが、この時にエルサレム教会に支援の手を差し伸べる。最初の教会の様子を使徒言行録は書き記す。聖霊は何をしたのか。境界線を越えていく。異国のアンティオキア。そことエルサレムとの間には境界線はない。教会を迫害していたサウロ。教会と自分は違うという境界線があった。それがいまや取り払われている。境界線を越える。それは表現を変えれば、このようにも言えよう。新しくする。新しい教会。新しい仲間。このアンティオキアで教会は「キリスト者」と呼ばれるようになった。新しい名前。聖霊は何をなすのか。新しくする。それが聖霊の働き。そして、その働きは今も決して変わることはない。今も聖霊は新しいことをなしている。もし新しいことが生まれていないのだとしたらそれはわたしが聖霊を押しつぶしているから。エデンの園では神の言葉に逆らい、主イエスを十字架にかけたのが人間。人間には神をつぶす力が与えられている。私たちの内なる聖霊。耳を傾け、共に歩む。新しいことが始まっているのが見えてくる。聖霊は何をするのか。世界を、わたしを新しくする。常に新しい永遠の命。聖霊が変わらずなしていること。

「先へ進まれる神」

2018年7月1日使徒言行録11章1-18節  神の言葉聖霊ユダヤ人だけが分かるものと思っていた。ユダヤ人だけの恵みと持っていた。ところがそれが異邦人のも与えられた。ペトロは自分が目撃したことをエルサレムの教会に伝える。使徒言行録は教会の始まりを記す書物。そこに登場してくるのは聖霊。教会の始まり、教会の働き、そこにはいつも聖霊がいる。聖霊のよって教会は成立している。ペトロが異邦人と交流を持ったことに、エルサレム教会は憤る。異邦人と交わらない。それが神の戒めだと信じていたから。ペトロが経験したヤッファでの出来事。ローマの軍人コルネリウス達に語っていた時に聖霊が降ったこと。洗礼を授けたこと。これを聞いたエルサレム教会は大変驚き、その事実を受け入れていく。教会を作っている聖霊。聖霊は何をするのか。使徒言行録は始めから明確に語っている。ペンテコステの朝、聖霊が降ると、使徒たち、ガリラヤの者たちが異国の言葉を語り出す。聖霊に導かれたペトロは異邦人に洗礼を授ける。異国の言葉、異邦人との交わり、聖霊の働きはいつでも明確になっている。隔て、境界線、違い、それらを飛び越える。隔ての壁をなきものにする。向こう側へ人をいざなう聖霊。聖霊の働きとは何か。愛の実践。聖霊はいつでも広い。広々としている。ペトロの報告を聞いたエルサレム教会。ここに教会のあり方が語られている。エルサレム教会はヤッファで起こったことを直接経験してはいない。ただペトロの言葉を聞くだけ。その報告でペトロは言う。「私たちに降った聖霊が彼らにも降りました」。あなたの中にある聖霊、それが彼らにもある。エルサレム教会は目撃していないのだからペトロの言葉を否定しようと思えばいくらでもできた。我が内なる聖霊、それが彼らにもある。聖霊に聞けばそれが偽りか真実かすぐに分かる。聖霊に聞く。聖霊が語る。広々とした聖霊が何を語るのか。エルサレム教会聖霊に聞き、自らの主張を喜んで悔い改める。聖霊を思い出した人々。聖霊と共にある人々。教会の変わらぬ在り方が示されている。 

命を掘りあてる

2018年6月24日創世記26章15ー33節不安、困難の現実と直面すると、人はなんとかしようと慌て出す。異国で命の危険を感じたイサクは妻を妹だと偽って生き延びようとする。結局、神に全てを明らかにされ目論見は失敗するが守られ、繁栄が与えられる。神がどんな時も守っている。その経験をイサクはする。
 そのイサクがまた試練に遭う。王様アビメレクに住んでいるところを追い出される。かつて父アブラハムが掘った井戸をことごとく塞がれる。生きる糧、希望、それが潰されていく。イサクたちは井戸を掘りあてても土地のものに略奪される。希望が生まれない。闇と直面している。
 ある時、アビメレクが突然、イサクに和解を申し出る。誓約を交わし平安のうちにそれぞれのところで生活を始める。その直後、イサクの元に僕が帰ってくる。「水が出ました」。新しい井戸を掘り当てた。
 私たちが感じる「闇」は人間関係であったり、社会情勢であったり見えるもの。イサクはアビメレクとの関係で翻弄される。翻弄されている間じゅう奪われもするが井戸は掘り出されている。そしてアビメレクとの和解が成立してからも井戸は見出される。見えるもの、それがどんな状況でも井戸は生まれ続けている。何が語られているのか。 関係がない。 見えるものがどうであれ井戸は見つかる。うまくいっても、行き詰っていても、関係なく井戸は生まれている。井戸、生きる糧、生くる望み。神の守り。 楽しい、つらいは人の判断。その人の足もとで起こっている。井戸は何にも影響されずに生まれ続けている。苦難の底、闇の根底、そこにも溢れる泉は湧き上がっている。見えないところ。そこには今も私を支える確かな神の恵みが満ち溢れている。信仰は神様に見える世界を整えてくれと要望を出すことではない。わたしの足もとには尽きぬ泉があることを知る。信じる。わたしの命を信仰は支える。