わたしは誰か
1月8日
マルコによる福音書14章53節 - 65節
主イエスへの裁判が始まった。証言者が次々に現れる。その証言は食い違っていく。効力のある言葉が現れない。
「言葉」には力がある。そして、「言葉」には限界もある。「言葉」の性質、それをこの出来事は語っている。言葉は個人に帰属するもの。どんなに正しいと思って語っても、所詮は私の思い。照合すれば食い違い、同じにはならない。
言葉は人が、私が作り出しているもの。
神は何か。正義とは、平和とは、何か。言葉で作り出しても一つにはならない。イエスとは誰か。言葉が食い違う。
主イエスは人が言葉をついやしている間、ずっと何もしゃべらない、黙っている。ただ「お前は神の子か」と聞かれた時のみ「わたしだ」と答える。結局その言葉を利用して人々は主に有罪の判決をする。その際、兵隊たちは主に目隠しをして、殴りつけ「誰がやったか当ててみろ」ともてあそぶ。
「誰がやったか当ててみろ」。分かるまい。私が誰か分かるまい。私は、お前には、人には分からないもの。私は誰にも分からないもの。主イエスの「私だ」との言葉と真逆の自己判断である。
人は言葉を用いて世界を把握しようとする。私のことは誰も分からないと思っている。この根底には何があるのか。「神などいない」。神がいないから私が把握する。誰も分からない。
主イエスは黙る。「わたしだ」と偽らない。神を知っている。神がいるから自分で世界を、自分を構築しようとはしない。
神はいる。教会、キリスト者、言葉を費やすものが本来の姿ではないのかもしれない。神に信頼する。たとえ私の命がどうなろうと、それでも神を信頼する。命の先、死の先まで神の守りは及んでいる。言葉を用いないことで語れるものがある。教会のあかし。
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