体に記す
1月22日
創世記17章1-13節
私たちは願いを持っている。願い、祈る。しかしそれが必ずしも叶えられるとは限らない。むしろ叶えられないものの方が多い。神様は一体、何をしているのか。何を私たちに与えようとしているのか。
アブラハムが99歳の時、神は契約を交わそうとする。「土地を与えること、子孫を与えること」それを約束する。そして人の側には割礼を受けることを求める。
その神の約束の言葉を聞いて、アブラハムは笑ってしまう。「年寄りの夫婦に子供が産めるはずがない」と。それに続き神は生まれてくる子供の名前を「イサクとせよ」と命じる。この約束を聞くやさっきまで笑っていたアブラハムはすぐに割礼を受ける。何が起こったのか。アブラハムは何を聞いたのか。
「土地取得、子孫繁栄」。これは誰に取っても幸福の約束として響くもの。そして同時に誰にでも当てはまるものゆえ抽象的、一般的な言葉と聞こえてしまう。名前、固有名詞。一般的ではない。言わば特注品。神が準備しているものは私のためのもの、特注品である。神の言葉が一般的だと思っていた時、アブラハムはそれを笑っていた。
私たちも気がついていないのではないか。願っているものはどこにでもある、誰でもが想像のつく一般的幸福を祈っているのではないか。神は、一般を準備しない。人が受ける割礼も固有のも、自分だけの体験、特注品。神は特注を要求し、特注品を与える。「土地取得、子孫繁栄」一般的幸福条件ではない。寄留の民、土地のない、子供のいないアブラハムへの特注品が「土地」と「子孫」。
私たちは何を願っているか。求めているか。私だけのもの。私の幸福。普通、一般ではなく、私だからこそ求められるもの。特注品を求めているのか。
特注のもの、あなただけのもの。それを必ず与える。
それが神の契約。
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