11月14日 主日礼拝

11月14日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 10章1−4節

マタイ福音書はイエス・キリストの系図から始まる。
その結びには「バビロンへ移されてからイエス・キリストまで」と記されている。
ここにマタイの歴史観がある。
バビロン捕囚はまだ終わっていない。
バビロンシステム。
支配の中で回っている世界。
創世記の最初。
アダムとエバは自分には足りないものがあると思い込んで神との約束を無視する。
私は足りない。
他者からの評価、経済力、権力、安心。
足りないものがあると思い込む。
依存、執着、固執し、いつの間にか支配される。
喜んで奴隷になっていく。
バビロン捕囚は終わっていない。
バビロンシステムから人はどのように抜け出せるのか。
楽園から追い出される前に帰ることができるのか。
マタイは主イエスにその答えを見た。
それが福音書になっている。
12使徒を選ぶ場面。
ここにもバビロン捕囚との緊張がある。
マタイは弟子を二人一組で紹介する。
その始まりは兄弟を二組。
彼らの顔も知らない読者であるが
兄弟となれば、その二人は似ているものと勝手に想像を始める。
似ている二人。
脱バビロンは楽園回復でもある。
楽園の場面、創世記1章、2章を振り返る。
神の言葉、神の思いが、そのまま現れているのがこの世界だと物語は語る。
また男と女は両者とも神に似ているとしている。
登場するものが鏡に写したかのような関係にある。
鏡面対称。
対称性。
2章で女と出会った時のアダムのセリフは対称性そのもの。
「これは私の骨の骨、肉の肉」
目の前に私がいる。
鏡を見た時の表現が他者との出会いの場面に記される。
兄弟から紹介される二人一組の12弟子。
聖書の人間理解が書き込まれているのではないか。
目の前にいるのは私だ。
汝の敵を愛せ。
この真意も、そこにお前がいる、であろう。
木の実を求めたアダムとエバ。
弟を殺したカイン。
イエスを裏切ったユダ。
彼らは私だ。
鏡に写った私の姿だ。
足りないものがる。
その言葉を唆され、愚行に走る。
バビロンシステムで踊らされる。
本当に足りないのか。
12弟子を集め主イエスが行ったこと。
汚れた霊を追い出す権能を与えた。
病気、患いを癒すために。
これはマタイ福音書では山上の説教以来主イエスが行ってきたこと。
主イエスのしてきたことを弟子たちが行えるようになった。
同じ。
コピー。
私たちは本当に足りないのか。
私は鏡に写ったときにそこに写った姿は誰なのか。
主イエスと似ている。
神に似ている。
本当に足りないのか。
足りないはずがない。
アダム、カイン、ユダにも似ている私たちだが、
その私は神に似ている。
私はちゃんと自分を見ているか。
何が私だと思っているのか。
バビロン捕囚を終わらせる入り口に私たちは立っている。
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