「究極の愛」

2017年11月12日 森下静香神学生

 詩編32編
コリントの信徒への手紙一12章31節~13章13節 


最高の道。

パウロがコリントの信徒に切実に訴えたこと。

パウロの愛の定義は愛が何であるかではなく、愛が何をし、何をしないか。

まるで愛が人であるかのように語る。


パウロは愛を、霊的賜物である預言、異言、知識と対照的に描く。

霊的賜物は一時的。愛は倒れない。

霊的賜物は十字架と終末の間の今を教会が信仰によって歩む上では必要。


神の国が完成する「そのときに」神が私たちを知っているように私たちは完全に知ることになる。

「知る」主体は私たち。

「知識」を主張するコリントの信徒に、パウロは巧みに語る。


完全なものが来るとき、私たちは、神と顔と顔を合わせる。

信仰も、希望もいらない世界がくる。

神の愛に完全に包まれる世界に私たちは確実に入る。

愛とは、究極的に神にまみえることを確信させ、恵みによって与えられ、

教会の家族と分かち合う交わり。


愛を体験できる場所が教会。

教会の頭(かしら)に愛が据えられるとき、霊的賜物は正しい位置に置かれ、

神が霊的賜物を私たちに与えた目的が達成される。


究極の愛、いや愛は究極。

この神の愛がキリスト教会の結びの帯。

愛は目には見えないが、人のように確かに存在する。


キリストの体である教会に、愛は人のように存在する。

それは賜物ではなく、道。

パウロの言う最高の道。

パウロは、コリントの教会に愛に成長し、キリストの体である教会を建て上げてほしかった。

パウロは教会に愛を呼び覚ましている。


詩編32編8節。ここでの道、神の道は、罪人を赦すこと。

しかし、私たちが神の前に罪人として立たない限り、その恵みを知ることはない。

個人の罪の告白は共同体の罪の告白となる。

私たちは互いに対して責任がある。

共に神の御前に立ち、罪を告白し、神の赦しを受け、最高の道に留まる選択、決心をしたい。

最高の道。

これが私たちの留まる唯一の道。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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