7月10日 主日礼拝

7月10日(日)主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 14章13ー21節

2011年、震災、津波、メルトダウン。
2020年、新型コロナウイルス感染症。
2022年、ロシアのウクライナ侵攻。
金曜日、要人暗殺。
深い闇が向かってきている。
民主主義への挑戦と言うものもいる。
もはや民主主義を守る、守らないの枠組みでとらえられない何かが始まっているようにすら感じる。
聖書、ユダヤキリスト教は戦争、敗北、挫折、絶望から生まれた宗教。
絶望の中で人はどのような心構えをすれば生きていけるのか。
それを説いたのが、預言者であり、イエス・キリストでもある。
五千人を前にして弟子たちは現実的な選択を提案する。
皆を帰らせましょう。
自分たちには五つのパンと二匹の魚しかありませんから。
五千人を相手にするには足りない。
あまりに力不足である。
五千人は自分たちの相手にできるものではない。
この現実に対して自分たちは無力である。
何もできない。
これに対して主イエスはそのパンと魚を持って五千人に向かって行けと言う。
私には足りないものがある。
これは弟子たちだけの認識ではない。
アダムとエバ。
世界の始めから人類が持っている現実認識だと聖書は考えている。
アダムとエバは蛇に声をかけられる。
「お前には足りないものがある」
「それを食べると神のようになれる」
「完璧になれる」「幸せになれる」
そもそも人は神に似せて造られていた。
何も欠けているものはなかった。
何も欠けているものがないものが、何かが必要と思っても、それは思い込みでしかない。
思い込みだから、何を獲得しても、満たされることはない。
実際に足りないのであれば、補われれば終了できる。納得できる。
思い込みには終わりがない。
いつまでも続く「足りない」の思い込み。
自分以外の何かにすがらなければ生きて行けないと考える、尽きぬ執着、固執が始まる。
アダムとエバは必要のない「善悪の知識の木の実」を手に入れる。
必要のない腰を覆うもの、服を手に入れる。
自分を隠し、自分以外のもので自分を飾ること、それが幸せへの道だと考え始める。
何も持っていない私ではダメだ。
裸の私ではダメだ。
五つのパンと二匹の魚。
何も持っていないも同然。
裸も同然。
それで五千人に向かって行けと主イエスは言う。
弟子たちはその言葉に従う。
五千人は満腹し、食べ残したパン屑は12の籠にいっぱいになった。
五千人に通用した。
12は聖書の世界では「全て」を表す数。
12の籠にいっぱい、世界に立ち向かう準備が出来ている。
何も持っていない私が、裸の私が世界と渡り合える。
持っていない、裸だからダメだは人の思い込み。
自分以外のものを自分に貼り付けるから戦えなくなる。
世界に飲み込まれてしまう。
何も持っていない私。
地の塩、世の光。
何も持っていない私は神からの使命を持っている私。
神を表す私。
おそらく世界はこの先、まだ闇を体験しなければならないのだろう。
闇、恐怖。
自分以外のもので自分を覆いたくなる。
自分を守りたくなる。
だがそれは世界に飲み込まれる私を作っているだけ。
何も持っていない私で闇と戦える。
裸の私で闇を乗り越えられる。
信じる。
心を整える。
これからの世界を築く使命を私たちは担っている。
 
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