はじめも終わりも導きのまま

2018年4月8日

使徒言行録8章26ー40節

フィリポと出会った宦官は洗礼を受ける。

神を信じたから。

信じるとは何か。

信じるについての具体的な説明はない。

ただこの物語は言語にしなくとも構造で語っている。信じるとは何かを。


フィリポ、もともとはお食事当番。

宦官、エチオピアの女王に仕える者。

お食事当番と高貴な者が出会う。

本来はありえないこと。

人の常識、経験ではなかったこと。

物語は、私たちの既存の思いを壊す。


宦官が読んでいたのはイザヤ書の「苦難の僕」の詩。

フィリポはそれを解説する。

主イエスについて語る。

神を信じていたユダヤ人が神の子を殺した。

神の子を「神を冒涜するものだ」と言って殺した。

神を信じてるという自覚。

そこに大きな危険がある。

神が分かる。神を知っている。

信仰はそれと結びつくと思っている。

分かるとは何か。


分かるとは私の脳の中に対象を収納すること。

分かった対象、それは脳よりも小さい。

神は果たして人の脳より小さくできるのか。

人の脳に収まるものを「偶像」と言う。

神は偶像ではない。

神は生きている。

人の脳よりはるかに大きい。

すなわち神は分からない。

イエスを殺した者たち。

「神は分からない」を忘れていた。

身分の異なる者の出会い。

神は分からない。

どちらも人の思い、予定を超えていく。

予定、思いを超えていくもの。

私たちは不安を覚える。


今日の物語の舞台は「道」。

街と街をつなぐものが「道」。

街は安全、安定の場所。

これに対して「道」は不安定な、何が起こるか分からないところ。

物語は人が自らの思いの追い付かない現実に包まれていることを語る。

不安が人の日常であることを語る。

私たちの世界は不安である。

人はその不安の中でただ時間を浪費するだけなのか。

何を信じればいいのか。


物語の最初、フィリポは聖霊に導かれて宦官のところに行く。

物語の最後、宦官が洗礼を受けた後、聖霊によってフィリポは取り去られる。

思いもよらない所、道、不安の中。

しかし、その始めと終わりは聖霊が働いている。

不安の外には、不安を包み込んで神がいる。

不安と思えるものも神によって始まり、その最後も神が仕上げてくださる。

 信じるとは何か。

不安よりも大きい平安に包まれている。

そこに私はいる。

私たちが信じるもの。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000