導きと共に 

2018年7月22日

使徒言行録12章1—19節 

教会の始まり。

苦難が伴う歩みだし。

ヘロデ王は教会の者ヤコブを殺害した。

それが民に喜ばれたと分かると増長する。

教会の迫害を政策的に実行する。

結果、教会の中心人物ペテロが牢に捕らえられる。


明日には処刑されようとする前の晩、鎖に繋がれたペテロの傍で声がする。

「私について来い」。

鎖に繋がれていたことも忘れペテロはその声に従い牢を出る。

街の通りまで何事もなく進んだ時、声の主は見えなくなる。

ペテロはそれが天使だったと気づく。


仲間の家にたどり着き扉を叩くが開けてもらえない。

扉の小窓からペテロを確認し仲間に告げても誰も信ぜず閉じこもる。

それでもしつこく扉を叩き続けたペテロの努力の甲斐あってようやく家に入ることがかなう。


 一見ユーモラスな物語だが、大切なことを私たちに伝えている。

喜びがすぐそばに来ている。

見えないギリギリのところに来ている。

開けさえすれば良いのにそれを拒む。

過去にそんなことはなかった。

私の経験にはない。

人は過去に縛られると今起こっている素晴らしいことを見逃してしまう。


このペテロの帰還の物語とよく似た物語を読んだ覚えがある。

使徒言行録の作者の意図もそこにある。

よく似た物語。

主イエスの復活の物語。

なぜ似ているのか。

そこにメッセージがある。


復活はイエス様だけの不思議な超常現象か。

それを崇めることが信仰か。

ならば信仰は過去に執着すること。

「今」が見えない行為になる。

信仰は神の業を標本にして眺めことではない。

今、動く活ける働き。

主イエスの復活とペテロの帰還は酷似している。

何が語られているのか。

復活は過去の話ではない。

主イエスの後にも起こる。

復活はペテロの後にも起こる。

すなはち、その後も、今も起こる。

復活は過去のものではない。

今、起こっていること。  


生きているのか死んでいるのか分からない。

死んでも何も感じないのではないかと思えるほど心が真っ暗になることがある。

誰もそこには手を差し伸べることが出来ない孤独の中に閉じ込められることがある。

私は終わりなのか。

否、復活がある。

土くれに神の息が吹き入れられ土は人になった。

私は神の息をあずかっているもの。

今、活ける神は私自身を突き動かす。

新しくなれる。


それが人の日々の歩み。 


日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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