12月17日 主日礼拝
12月17日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
ヨハネによる福音書1章1〜5節
クリスマス前の一週間。
この週を私たちはどのように過ごすのか。
今週の心の整え方を考えたい。
ヨハネ福音書はクリスマスの情景は描かない。
それをクリスマスの出来事としている。
イエス・キリストの性質を語る。
それがヨハネが表現するクリスマス。
初めに言があった。
これを持ってクリスマスの物語を語り出す。
言・ロゴス
ここには特別の意味がある。
ロゴスとは第一原因。
ギリシア語の世界では、そういう取り決めになっている。
私たちにも原因はある。
遺伝子、経験、評価、業績。
そういうものが積み重なって「私」は形成されていると考える。
原因があり、結果としての私がある。
そしてこの結果である「私」も新たな、誰かの、何かの原因になっていく。
原因と結果を繰り返しながら私たちの世界は続いていく。
私たちの傍にある「原因」とロゴス・第一原因は何が違うのか。
ロゴスは原因を持っていない。
「第一」だから、そこより前は存在しない。
私たち自身、また私たちの傍にある原因、それらは皆、何らかの原因を持っている。
その原因とは何か。
その原因と私たちはどのような関係にあるのか。
私たちは、その原因に強く引っ張られている。
遺伝子にも引っ張られ、過去の栄光、挫折にも引っ張られる。
私たちを引っ張るものを原因と言い、それがあるから今が、自分があると考えている。
ロゴスと私たちは何が違うのか。
引っ張られる。
表現を変えるなら支配される。
ロゴスと私たちと何が違うのか。
私たちは何かに支配されている。
ロゴス、何にも支配されていない。
自由。
それがロゴス。
ヨハネ福音書はイエスはロゴスだと言う。
イエスは何にも支配されていない。
何にもすがっていない。
血にも依存していないし、支配されてもいない。
死にも支配されていない。
自由、ロゴス、それがイエスだと福音者は語る。
ただ、それはイエスに止まるものではない。
イエスがこの世界に来た。
そこで自由に生きた。
それはこの世界でそれが可能だということを世に示した。
ロゴス
それは私たちでもある。
ならばどのようにすれば私たちもロゴスになれるのか。
ロゴスは特別な意味があるとここまでしてきた。
もう一つ考えたい。
何故、第一原因を「ロゴス」としたのか。
言葉としたのか。
他の表現でもよかったはず。
それをなぜ「ロゴス」にしたのか。
言葉
私たちが日常でも用いるもの。
他者と話をする時も、自己確認をする時も、いついかなるときも私たちは言葉を用いている。
自分の言葉を振り返りたい。
私の言葉は何かに依存した言葉にはなっていないか。
何かに支配された言葉にはなっていないか。
自分以外のものに怯えたり、評価をもらおうとする言葉にはなっていないか。
自分以外のものを持ち込んだ言葉は、自由な言葉・ロゴスにはなっていない。
私たちは皆、言葉を使いながらもロゴスを語ってはいない。
ロゴスでない言葉。
他者を意識しての言葉。
敵意であれ、憧れであれ、他者を意識しての言葉はロゴスではない。
ロゴスでない言葉は他者に心が持っていかれた言葉。
相手が、他者が気になってしょうがない言葉
その言葉が戦争を引き起こす。
あいつはとんでもない。
あいつが悪い
あいつを何とかしろ
それを出来るのは自分だけだ。
ロゴスなきところに争いは起こる。
クリスマスを前にして私たちがするべきこと。
私の言葉はロゴスか否か。
自分の言葉を吟味する。
自分自身を吟味する。
探し、求めていく。
ロゴスを
本当の私の語るべき言葉を。
「言の内に命があった」
その言葉は命になる。
「命は人を照す光であった。光は闇の中に輝いている」
その言葉は光になる。
人を照す光
闇の中で輝き続ける光
その光、ロゴスを私たちは持っている。
闇に負けないロゴスを持っている。
ロゴスを見つけに行く。
クリスマスの準備を始めたい。
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