2月18日 主日礼拝

2月18日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

ルカによる福音書 17章1〜10節

受難節が始まった。
イエスの十字架を覚える季節。
イエスはなぜ殺されたのか。
なぜ、憎まれたのか。
その原因はイエスの考え方、世界観にある。
イエスの世界観とはどのようなものか。
ルカ福音書が残したイエスの言葉。
ここに三つの話が連続して出てくる。
三つは一見、何の関係のない言葉のようにも見える。
だが、おそらくここに一つの思想が盛り込まれている。
三つの話を貫くものは何か。
一つ目の話。
1日に七回罪を犯した者が悔い改めたのなら赦してやれ、と言う勧め。
二つ目はカラシだね一粒の信仰があれば根をはった桑の木に「海に行って根をはれ」と言えばその通りになるというもの。
三つ目の話。
立派な仕事をしても「自分は取るに足りない僕。しなければならないことをしただけ」と言え、という話。
三つの話を貫いているものは何か。
一日に七回罪を犯したものを赦せという言葉。
これを私たちはどのように解釈すれば良いのか。
まず、大切なのは、これを普通、自然に、私はどのように感じるか。
一日に七回も不愉快なことをするものを許せるはずがない、と。
聖書を読むとは、その普通、自然、私ならの感覚を忘れてはならない。
そこで解釈が始まる。
なぜ、私は許すことができないのか。
その者のしてきた「罪」「不愉快」という経験があるから。
それがあるから許す気にはなれない。
最もな感覚。
しかし、それはこうも言える。
その者がしてきた「罪」「不愉快」が私の心に張り付いて、余分な物が張り付いた心が生み出した判断だ、とも。
すなわちその者の行為に私の心が支配されると「許せない」の感覚になる。
二つ目も同じ。
しっかり根をはっている木に向かって海に行けと言う。
そんなことできるはずがないと私は普通に考える。
しっかりした木は動かない。
それが自然で、当たり前だと。
ならば、その自然で、当たり前はどこから来たのか。
これまでの経験、情報、物理的法則
それから導き出した結論
木は動かない。
そして同じ問いが始まる。
木が動かない。
それはこれまでの常識、情報、それが心に張り付いての「答え」ではないのか。
何か余計な物が張り付いた心は本当に世界を正しく把握しているのか。
三つ目の話。
私たちは立派な仕事、優秀な結果を残すことがある。
その時、私たちは大いに喜ぶ。
それは間違ったことではない。
しかし、同じ問いが生まれる。
私が喜んでいるのは、私の努力、他者からの評価、過去の私についてではないのか。
今の私ではない、どこかの私に乗っ取られて、私は今、有頂天になっているのではないか。
しなければならないことをしただけ。
それが言えない私の心の状態は何かに心が奪われているから。
三つの話は同じ構造を有している。
人は心が歪になっていることに気がつかない。
歪な心で見た世界が本当の世界だと思い込んでいる。
自分以外のものが自分の心に張り付く。
実は私たちはこれを積極的に行っている。
自分以外のものを手に入れて自分を固めていこうと。
富、名声、権力、同志
自分以外のものを握りしめることによって私たちは幸福へと近づく。
この発想を持っていたのがイエスを殺そうとした者たちの考え方。
律法をちゃんと守らなければならない。
神様に喜ばれるように正しい生活をしなければならない。
良い姿勢のようにも見える。
この良い姿勢のものたちから見たら安息日を守らない、罪人と付き合うイエスはとんでもない無法者のように思えた。
その無法者が人々の人気を得ようとしている。
早く処分しなければ
早く十字架にかけなければ。
イエスの振る舞いが危険だと思った人々。
自分以外のものを握りしめなければと思う人々。
彼らはどうしてそのように思うのか。
世界が怖いと思っているから。
この世界は怖く、恐ろしい。
その世界を生き抜いていくためには自分の力だけでは不足している。
自分以外もの
自分を守り、自分の力になるものを少しでも多く集めよう。
世界は怖いところだから。
イエスは安息日を守らない、罪人と仲良くなる、律法を軽んじていく
どうしてそんなことをするのか。
信じているから。
世界は神が造った良いところだと信じているから。
だから、何も必要としない。
何も持たない。
律法も、常識も、自分以外のものを自分に貼り付けようとしない。
自分以外のもの
その重たい荷物を下せ、とイエスは言う。
世界が怖いと思っているものにとって「重たい荷物」は自分が守ってくれる武具。
これを手放せば、自分は怖い世界であっという間にひとたまりもなく粉砕されてしまう。
下せとは何事か。
自分以外のものを自分から切り離していく。
それを私たちがもし実行しようとするなら、
世界を怖がっているものたちからは拒絶をされる。
イエスと同じ苦しみを味わうことになる。
受難節はイエスの苦しみに同情をする季節ではない。
私たちの覚悟が問われる季節。
自分に張り付いたものを手放す覚悟はあるか。
世界は良いところと信じて生きる覚悟はあるか。
この季節に私たちがなすべきことを行いたい。

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