3月10日 主日礼拝

3月10日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

ルカによる福音書18章9〜14節

イエスは何を思い十字架への道を引き受けたのか。
受難節に考えたい。
神はどのようなものを良いというのか。
言葉を替えるなら世界はどのような者を待っているのか。
イエスの譬え話。
二人のものが登場する。
一人は落ち度のないファリサイ派
今一人は罪深い徴税人。
神殿でこの二人が祈る。
ファリサイ派の者は感謝を捧げる。
「自分は他の者たちのようにふしだらなものでなく、
この徴税人のように罪人でもないことを」
徴税人も祈っている。
「神様、罪人の私を憐んでください」
この話をイエスはこう結ぶ。
神に義とされたのはあのファリサイ派ではなく
この徴税人だ、と。
神に義とされる。
世界に必要とされるもの
それは徴税人の方だ。
何が違うのか。
ファリサイ派の祈り
人と比べて、自分を確認している。
あの人のようでなくてよかった。
これは逆にもなる。
あの人のようになれなくて悔しい。
自分は不幸だ。
神を呪う。
自分以外のものに自分を預ける。
依存し、支配される。
自分が自分でなくなる。
徴税人の祈り。
「わたし」しか出てこない。
罪人の私を憐んでください。
自分以外のものを意識していない。
ただ、私だけ。
そこには依存も支配もない。
そこが神に認められるところ。
ただ徴税人の特徴はそれだけか。
徴税人はなぜ祈るのか。
経済的に豊かなのだから開き直る生き方もあったはず。
こんな私で何が悪い。
神など怖くない。
一度の人生、楽しんで何が悪い。
憐みなど、神に願わなくとも、人生を全うできたはず。
それが、なぜこの者は神に祈ったのか。
ここが本当の自分だと思っていないから。
これが神に造られた自分だとは思えない。
神が造った自分になりたい。
天地の始め、神は世界を造って「良い」と言った。
この世界は「良い」ところ。
人は神に似て、良い者。
今の私は神の造られたものになっているのか。
なっていない。
なっていないが、なりたいと願っている。
良いものになれると信じている。
神の造られた自分になる。
だから彼は祈る。
自分は良いものになれる。
生活が何も変わらずとも、変えられなくとも
良いものになれると信じている。
祈る。
自分は良い者。
それは神の創造の出来事を信じている。
神を信じている。
それが神が義とする者
世界に必要な者
イエスは十字架への道をどのように考えていたのか。
神に造られた自分になる。
神を表す自分になる。
ご自分の造ったもの、全てを愛する神。
その愛を表す。
それが私になること。
十字架への道
本当の自分へ進む道。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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