3月24日 主日礼拝

3月24日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 27章32~44節

イエスは何故、十字架にかからなければならなかったのか。
マタイ福音書の十字架の場面。
人々がキレネ人にシモンに十字架を負わせる。
イエスにぶどう酒を飲ませようとする。
イエスについての思い思いの言葉を浴びせて侮辱をする。
彼らは何をしているのか。
押し付けている。
自分のしたいことを
自分の思いを
自分の言葉を
押し付けている。
何故、押し付けられるのか。
相手が反論してこないと知っているから。
自分の言葉だけで押し通せると思っているから。
相手はもういない。
相手を無視して、自分だけに酔いしれる。
この構造は何と同じか。
「答え」
私たちがすがる、利用する、時に支配をされる「答え」はこの構造。
「ひとつの言葉」が提示され、反復、応援が得られれば、
他者を制圧できる「答え」になる。
イエス・キリストを十字架につけたもの
それは「答え」
「答え」
私たちも持っている。
私たちも求めている。
ただ、それは神を否定するもの。
我らは何故、「答え」を求めるのか。
正しいことが必要だから
間違ったことを行わないように。
「答え」が必要と思う、その発想の根底にあるものは何か。
世界が怖く、恐ろしいと思っている。
天地創造の物語を信じていない。
世界は「良い」を信じていない。
「今すぐ十字架から降りてきたら信じてやろう」
十字架上のイエスに投げられた言葉。
期待したものが起こったら信じる。
信じるが取引になっている。
それが「信じる」なのか。
こちらの納得が得られないと信じない。
信じない場合もある。
信じる。
委ねること。
賭けること。
それができない。
確証が得られるまでは。
ここにある世界観も世界が怖い
世界を信じられない。
イエス・キリストの始めの言葉
「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
明るいものがやって来る。
取引ではない。
信じようが、信じなかろうが、やって来る。
やってきたもの、
ここにあるもの
ここにあるものと出会う。
信じる。
十字架のイエスに対する暴言
人を救ったのに自分は救えない。
神に救ってもらえ
ユダヤ人の王
彼らの暴言の共通点
「そんなことは起こるはずはない」
ありえないことばかりをあげつらいイエスを侮辱する。
この三日目に、
その後に世界に起こったことを私たちは知っている。
彼らの言った言葉は全部、本当になった。
イエスを十字架に追いやったもの
「答え」
取引で信じる
起こるはずがないと思っていること。
彼らに共通しているのは「ここまで」と線を引いていること。
ここまで正解
この線の内側なら信じる。
この線の向こう側のものは起こらない、あるはずがない。
聖書が私たちに告げていること
その先がある。
線を引いたのは私たち人間
その勝手な区切り。
神の造った世界
人の引いた線のその先がある。
その先
神の子を十字架につけた私たち
その私たちにも「その先」がある。
誰にでも「その先」がある。
近づいてきた神の国
神の恵み
とはそういうもの
その先で溢れているところ
それがこの世界に本当のかたち

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