10月6日 主日礼拝
10月6日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 7章54-60節
人を生かすとはどういうことか?
人々から石を投げつけられるステファノ
意識が衰えていくときに、ステファノは祈る。
神よ彼らに罪を背負わせないでくれと
人を救うための祈り、
人を生かす祈り、
ステファノはそれをする。
なぜステファノはそういう祈りができるのか
石を投げつけてきている相手、
その者達にステファノは語ってきた。
自分たちの歴史を自分たちのこれまでを
私たちとはこういうものではないのかと語ってきた。
人とは何か
ステファノが語ってきたもの。
ステファノはイスラエルの歴史について語る
ヨセフ
夢を解くもの
自分の賜物を生かす
ただそれは人からは理解をされない。
非難、否定、拒絶の対象
それでもヨセフは夢を解き続ける。
モーセ
神からイスラエルを導く使命を与えられたもの。
その使命を渡すために、モーセはイスラエルの人々の前に立つ。
ただモーセは人々から理解をされない
非難、否定、拒絶をされる。
それを語るステファノ、
ステファノも同じ
人々から理解をされない。
そして今、石を投げつけられている。
私たちは思う。
石を投げつけられたら恨み、怒り、
この思いを自分が果たせなくとも、誰かに果たしてほしいと。
復讐をしてほしいと。
ステファノはそれとは真逆のことを祈る。
何が違うのか
何がフテファノの中で起こっているのか
恨み怒りとは何か
相手に集中をすること
相手の事ばかりを考えること
言葉を変える。
相手に心奪われる。
それが怒りを生み出している。
ヨセフ、モーセ、ステファノ
人が自分をどう見ているのか、
人が自分にどういう言葉を発しているのか?
人が自分に何をしているのか、
彼らはそれを気にしていない
人を見ていない。
人に心を持っていかれていない。
自分の賜物を
自分の使命を
ただ粛々と行っている。
人を意識していないから祈ることができる。
人をどうこうしてくれなどと思わない。
神が造った人、
それを神様が仕上げてくれ
と祈るだけ。
私は私ができることだけをする。
人を生かすとはどういうことか
人に注目をし、人を観察し、分析をする。
その者に役に立つであろうものを見つけ与える。
それが人を生かすこと、と私たちは考えている。
しかし聖書の物語は違う。
人ではない。
自分に心を定めること、
それが人を救う祈りにつながっている。
ウクライナで起こっていること、イスラエルで起こっていること、世界の中で起こっている課題、
私たちはそれに対して何もできないと無力感を感じる。
だがその無力感は人を見ているから。
私が私の使命を果たす。
何かにつながっていく。
誰かにつながっていく。
隣の誰かも私の使命を果たす。
それがつながり、世界ができていく。
教会はそうやって歴史を紡いできた。
私は何もできないのではない。
何もできないは、自分の心が自分から離れていったときに思う感想。
人は自分の使命を果たすために生まれてきた。
人の評価におもねるためではない。
神との約束を果たす。
それが神の造られた世界で求められていること、
人を生かすとはどういうことか
私が本当にしなければならないこと、
私の塩味、私の光
それを隠したり、曇らせたりすることなく、守り続け行っていく。
人に心を奪われなければ人を生かすことができる。
私が私の人生を生きる。
人が生きてくる。
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