3月22日 主日礼拝
3月22日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 23章23〜32節
キリスト者とは何か。
パウロは全くのでっち上げで裁判にかけられた。
イエスも同様に裁判にかけられた。
裁判ではイエスにも、パウロにも、有罪の判決は下されない。
本来ならばそこで無罪釈放のはず。
ところが民衆は集団ヒステリーかの振る舞いでイエスの死刑を要求する。
最高責任者のピラトはついに政治判断でこの裁判は正当なものではないことを彼らに了承させ、イエスの身柄をユダヤ人に引き渡す。
パウロもまた同様に裁判では無罪になっている。
しかし裁判に納得のいかないユダヤ人は暗殺団を組織し、パウロの命を奪おうと計画する。
イエスの裁判、パウロの裁判、裁判はなされた。
だが、裁定は無視をされた。
法とは何か。
思いつきで制定されるものではない。
知見、経験、歴史、これまでのありとあらゆるものを総合し、その上で自由を担保し、人に、社会に「こうなってほしい」と願いを込めて紡がれた言葉。
それが法。
法を無視する。
それは人類の歴史も、国の願いも、全てを踏みにじる行為。
信頼、経験、判断、願望、それらが全て否定された。
イエスの裁判、パウロの裁判、どちらも世界を否定した行為。
いわばなんの秩序もない、ただ人の感情、思いつきだけで動いている状況。
無秩序。
過去にも、未来にも繋がらない状態。
イエスもパウロもそれは分かっていた。
それでも、その偽りの裁判の決定に従おうとする。
イエスは十字架にかかり、パウロは裁判の続行を願い出る。
その結果、パウロはローマ皇帝のもとに辿り着く事になる。
パウロは何故、裁判の続行を望んだのか。
皇帝のもとに行けるとしても囚人としてたった一人で行くことになる。
釈放され、組織を作り、チームプレイでローマに宣教をする方法もあったはず。
なぜ、たった一人の裁判の継続を願い出たのか。
イエスを見ていたから。
イエスの十字架を見ていたから。
イエスはたった一人で戦った。
たった一人の戦いが世界を変えようしている。
なぜパウロはたった一人の裁判の継続を願い出たのか。
一人で充分。
世界を変えるのはバタフライの羽ばたき一つ。
20世紀の科学が証明したこと。
一人で世界は変わる。
キリスト者とは何か。
一人で充分。
私が世界を変えている。
法が破綻した状態でも、そこで私のすることを行う。
キリスト者。
希望を失わないもの。
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