4月19日 主日礼拝
4月19日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
ヨハネによる福音書 20章11〜18節
私たちは世界とどう直面しているのか。
イエスの遺体が葬られた墓。
そこが空になっている。
空虚な墓で悲しみに暮れるマリア。
イエスが近づく。
「婦人よ、なぜ泣いているのか」
「誰を探しているのか」
泣く理由は何か。探している者は本当にいないのか。
泣く理由も、探す必要も本当はない。
だがマリアは泣き続ける。
マリアは世界を見ていない。
分かっていない。
なぜ分からないのか、見えないのか。
イエスは死んだ。
死んだものと再会をすることはない。
死んだものはいるはずがない。
それがこの世界の答え。
一度も例外はないもの。
例外がない、前例がない、これほど確かなものはない。
だが聖書の物語では、それでは世界は見えない、分からないという。
ではどうすれば世界が見える、分かるようになるのか。
復活の場面でのマリアとイエスの対話。
イエスは呼びかける。
「マリア」
この時、マリアは目の前のものがイエスだと分かった。
「先生」
「ラボニ」と返事をした。
名前。
境界線を表すもの。
集合から「私」を切り出すもの。
「マリア」
他の誰でもない「あなただ」。
私がいる。
私なんだ。
私が見ているもの。
他の誰かが見ているもの、みんなが見ているものと違う、私だけが見ているもの。
それが本当の世界。
天地創造。
神が言葉を発する。
「光あれ」
世界はその言葉の呼応するように同調して出来上がる。
それを神は「良い」と言う。これが世界だと言う。
私たちは世界とどう直面しているのか。
私
その私が見ているもの。
人と同じではない。
反復はできない。
今、ここにいる私が「今」「ここ」で見たもの。
「私は主を見ました」
マリアが弟子たちに告げた言葉。
私が見たもの。
ありのままの世界に同調する。
世界が必要としているもの。
世界を「良い」にしていくもの。
0コメント