6月14日 主日礼拝
6月14日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
教会は何を伝えてきたのか?
今もそれを伝えているのか?
使徒言行録24章10−23節
イエスもパウロも裁判にかけられる。
証拠も、証人もいない。
裁判として成立しないにもかかわらず、それを実行しなければならなかった。
ユダヤ人の思惑、彼らは何を考えていたのか。
イエス、パウロ、教会
彼らは何を伝えたのか。
ユダヤ人が裁判にかけてまで封じ込めたかったもの。
恐れていたもの。
イエス、パウロ、教会が伝えていたもの。
それは同じもの。
希望。
ユダヤ人はこれを恐れ、教会はこれを伝えていた。
古代において「希望」は現代の私たちの感覚とは異なるものとして扱われていた。
原因のわからないもの。
説明のできないもの。
それでいて人に影響を与えるもの。
疫病と同じ構造。
それを捉えるのに「理由」「原因」説明がつかない。
パンドラの箱に残されていたのは「希望」
邪悪なものの根源が「希望」なのか、希望が排出するのを期待するのか、いくつもの解釈が生まれるが、邪悪さと隣接しているものが希望と考えられていた。
神。
私は、私、私として在る。
聖書の神は自らを他の言葉に置き換えない。
説明の言葉を持とうとしない。
説明、依存するもの、他に置き換える
それをしない。
依存、他者にすがらない、自由なもの。
神、希望
イエス、パウロ、教会はそれを伝えてきた。
希望で社会は維持されるのか。
希望で未来は築けるのか。
希望ではなく、説明ができる、社会性のあるものこそが優先されるとユダヤ人は考えていた。
希望は無価値なものなのか。
教会の歴史2000年。
希望が何を生み出してきたのか、時間がそれを証明している。
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