6月21日 主日礼拝
6月21日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
自由主義か?
共同体主義か?
教会の歴史
この「極」を彷徨ってきた歴史。
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使徒言行録24章24−27節
不当な裁判である故パウロを釈放したいローマ総督。
ただ社会情勢を鑑みた時に、その決断はできない。
やむなくパウロを幽閉する処置をとる。
その間、総督はパウロからイエスについての話を聞く。
パウロから話を聞く総督フェリクス。
ところが聞いている最中、恐ろしくなり話を打ち切る。
フェリクスは何を恐れたのか。
聖書にその内容は記されていない。
ここからは解釈、想像の領域。
ただ、この想像は教会の歴史を知るうえで必要なものと考える。
パウロの言葉・手紙に記されているもの。
たとえば「信仰・希望・愛」
現代の私たちには違和感のない言葉。
だがこれが当時は恐怖の対象、嫌悪の原因だった。
なぜか。
当時の人々の世界観。
律法をはじめ社会のルール、より明確には「神」、
この神のご意向に沿うことが何より大切だった。
神の意向、システムに従うこと、それだけが人々の関心事だった。
ところがイエスも、パウロも「神」という「自分の外」を意識し、その意向を実践するためには内なる「私」も確認することを勧める。
「信仰・希望・愛」
内省の言葉。自分の内なる吟味を促すもの。
これらは他者に表せないもの、他者が確認できないもの。
外に出せない、検証できないもの、それは考えるに値しない、考えてはならないものと処理されていた。
当時の世界観には「自分」を考える思考回路すらなかった。
自分を考える。
その思考に気が付いた時「恐ろしくなる」「嫌悪を覚える」
それが当時の人々。
故にイエスもパウロも否定された。
自分以外のものが大事、社会が大事、それは否定されるものではない。
ただ「自分を考える」この自由主義の発想とは対立する。
人の個性を意識化させずに、個人を暴走させずに社会秩序を成立させる共同体主義。
社会の最低単位である「自分」の納得のいく人生を歩む自由主義。
この両者は相反すること。
教会はこの相反する二つの「極」の間を振り子のように動いてきた。
相反していながらどちらも重要
答えは一つではない。
決定化されない。
動きながら2000年、歩んできた。
教会の歴史。
振り子は今、どこにあるのか。
その両極は絶対なのか。
歴史から考えなければならないこと。
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