8月9日 主日礼拝
8月9日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 26章24~32節
パウロの伝道。なぜ彼は伝道をしたのか。
「理」を見つけたからではないか。
普遍的なもの
誰にでも必要。
だから伝えたい。
「理」見えないスジを大切にすること。
漢字からの意味。
パウロ自ら総督に向かい「自分が伝えているのは理だ」と言っている。
ここでの理
ソーフロシュネーというギリシャ語
ギリシャ世界は辞典より物語でその言葉の意味を落とし込む風習がある。
プラトンの「饗宴」に登場するソクラテス。
このソクラテスの弟子のアルキビアデス。
この者がソクラテスを誘惑するが、これを相手を傷つけることなくソクラテスは退ける。
その時、アルキビアデスはソクラテスにはソーフロシュネーがあると言っている。
ここでの「理」とは立ち向かうでもなく、全てを引き受けるでもなく、するりと間を抜けていき、何事もなかったかのようにして、自分をブレさせない。
穏やかな正気。
この物語は聖書を読むものにも有益なもの。
どうすれば私たちは「理」を得ること、それを実行することができるのか。
聖書の中の同じく誘惑物語。
主イエスの荒野の誘惑。
悪魔の誘惑は、取引によって自分を世界の真ん中に置けというもの。
これに対して、イエスは全てを退ける。
ここで何故、イエスは悪魔の誘惑を退けることができたのか。
ソクラテスはなぜ、アルキビアデスの誘惑を退けることができたのか。
目の前のもの、誘惑をしてきているもの。
それよりももっと大きな者があることに気がついたからでないのか。
パウロは王、総督、これらの世の権力者達を恐れない。
もっと大きな方を知っているから。
ソクラテスはアルキビアデスの誘惑を退ける。
捨ててはならないもっと大きなものを知っているから。
イエスが律法主義者を批判する。
律法を守れば神に喜んでもらえる。
破れば神から叱られる。
だから律法を守ろう。
イエスはこれに怒る。
神が人の取引に乗るような小さい方だと思っているのか。
私たちが何をしようが変わらない。
そういう大きさ、人が把握しようとしても把握できない大きな方。
それを表すがために時に律法を軽んじる言動をとる。
それを誤解していたパウロではあったがやがて気がついた。
これが「理」だ。
故にイエスを宣べ伝えた。
裁判の席、イエスの話をパウロから聞いた二人の権力者。皇帝と王。
二人はパウロの言葉を遮って法廷を退出する。
パウロの言葉は肯定されることはなかった。
ただ席を離れてから二人は確認した。
「あの男は何も間違っていない」
「理」は伝わっている。
イエスは「理」だった。
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