8月16日 主日礼拝
8月16日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 27章1~10節
パウロがイエスを通して見つけたもの
「理」と表現してきた。
この世界の根底にあるもの。
誰にでも、いつでも忘れてはならないもの。
「理」「合理」「真理」
教会の馴染みのある表現ならば「神のみ心」
では、その「神のみ心」「理」と私たちはどのように出会い、それを持って生きるとはどういうことなのか。
パウロのローマへの護送、船旅、この後の出てくる「嵐」
ここからヨナの物語を連想することも聖書の読み方として的はずれではあるまい。
ヨナも神の言葉、み心に出会った。
その時、ヨナはどうしたか。
断った。
預言者たちも同じ。
神の言葉、み心に出会った時、ためらい、拒絶をした。
神のみ心、理、真理とは何か。
私たちが拒絶をしようと思えば拒絶のできるもの。
受け入れる、拒否をする。自由の関係にあるもの。
神のみ心、理、真理の次の特徴。
その神のみ心、真理と出会い、それを持って生きようとする。
何が起こるか。
周囲から拒絶をされる。
間違っていると非難される。
マリア、ヨセフ、彼らの決断は決して人に知られてはならなかったもの。
人に知られれば、間違っていると排除された。
民主主義が重んじている多数決は真理を見つけるための方法ではない。
組織を健全化するための自己修正メカニズムに過ぎない。
アインシュタインも、ダーウィンも多数決で世に残ったものではない。
人々から拒絶をされる「神のみ心」「理」「真理」をなぜ私たちは大切にしなければならないのか。
「神のみ心」「理」「真理」の三つ目の特徴。
やがて誰もがそれを認めざるを得なくなる時が来るから。
パウロの言葉は表面上は否定をしていた王や総督にも確かに伝わっていた。
イエスの言葉は2000年間、語り伝えられている。
神のみ心、理、真理、それと出会い、それと共に生きたものが自らの生涯のうちで世界にそれが許容される時を経験できないかもしれない。
経験できない。
それでもそれと共に生きる。
受け入れなくてもいい。
受け入れても周囲のものから理解をされない。
それが日の目を見る時を目撃もできない。
なぜ、神のみ心、理、真理と共に生きるのか。
命あるものとして、一番おもしろい生き方だから。
一番おもしろい。
それを人に与えているものが神のみ心、理、真理。 表示を縮小
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