8月23日 主日礼拝
8月23日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 27章13~38節
「理」という表現を使って使徒言行録を読んできた。
ユダヤ教の言葉、律法。
ユダヤ社会では共同主観となっている言葉。
だが、ローマでも、エジプトでも、この言葉は通用しない。
イエスは律法を批判した、と当時のユダヤ人もパウロも思っていた。
だが、イエスがしていたことは律法の構造になっている神は何をしても人を愛している、人の行いでその判断を変えるようなものが神ではないとの神の絶対性を説いていた。
変わらぬものが神。
一つの表現だが、パウロはイエスの中に律法を超える「理」を見つけた。
これなら世界と戦える。否、世界に告げなくてはならない言葉と自分は出会った。
「理」との出会いがパウロを世界宣教へと駆り立てる。
「理」「神のみこころ」
私たちもそれと出会ってるはず。
教会の中で「これは神のみこころですから」と言って人に命令をするものがいる。
これがみこころのはずがない。
ならば、何を持って私たちは人の言葉と神のみこころを識別することができるのか。
今日の聖書の物語。
船が座礁する話。
パウロは子の出航に反対する。だが、船主達は出航を選択する。
案の定、船は嵐に見舞われ、人々は生きる望みさえ失う。
パウロはそのもの達を励ます。
私は皇帝に出頭をしなければならない、それが神のみこころだから、必ずこの船は陸地に到着する。
船、人の思い。
パウロ、神のみこころ。
これらの特徴は何か。
船、走り出しはするが、途中で止まり、消えてしまう。
パウロ、神のみこころを携えるもの、どんなことがあっても止まらない。進み続ける。
状況に支配されない。
自由なもの。
「理」とは何か。
一つの「理」が見つかっても、それに限界が生じたら次に「理」がそれを補っていく。
いつまでの続くもの、終わらないもの、それが「理」。
イエスは「理」である。
イエスは終わらない。
十字架にかかり一度死んでも甦る。
永遠の命。
それは「理」のあり方。
変わらないもの、止まらないもの、私たちはそれと出会っている。
「理」を経験しているのであれば、「理」と共に行くしかない。
「理」と共にいる。
永遠を私たちは生きている。
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