神の義
2020年4月5日(棕櫚の主日)
ローマの信徒への手紙1章1-32節
いかに生きればいいのか。
先の見えない感染症の拡大。
経済の打撃。
自らの身体の心配。
いかに生きればいいのか。
その問いの前に私たちは立たされている。
この状態を有事だという者がいる。
見えないが襲いくる敵。
戦闘状態であろう。
イスラエルは2500年前、バビロニア帝国との戦いに敗れる。
2000年前にローマ帝国に敗れる。
旧約、新約二つの聖書はその敗戦から生まれた。
聖書は戦争を知っている。
戦闘状態にある時、聖書に耳を傾けたい。
パウロの手紙を読み始める。
新約聖書の約半分はパウロの影響下にある文書。
なぜパウロの文書がこれほど保存されているのか。
パウロとは一体何者なのか。
事柄を鮮明化するために言うならばパウロは「信仰」を発見したもの。
パウロはユダヤ教に属していた。
宗教に属してたのだから信仰はあっただろうと思いたくなる。
だがパウロはユダヤ教徒でありながら自らの「信仰」に苛立っていた。
パウロはイエスを知っていた。
習慣、常識、規律をことごとく破り平気でいる不届きなやつ。
パウロはイエスが嫌いだった。
そのパウロがイエスを信じるようになる。
何が起こったのか。
ロマ書3章に「キリストの信仰を通して」との言葉がある。
パウロはイエスに信仰を見た。
その信仰とは何か。
パウロの時代、神に認められる、現代風に言うならば幸福になる、
それは飾り立てることと考えられていた。
規律を守り、習慣を重んじる。
自分がどれだけ立派に振る舞ったか。
それが幸福への約束と考えられていた。
これは現代でも同じこと。
経済力で飾り立て、
権力、数字で飾り立てる。
飾りが立派なら幸福が近づくと。
パウロも、私たちも知っている。
どんなに飾っても真の幸福は味わえないと。
それでも人は飾りを信じている。
経済を、力を、数字を信じている。
パウロも当時の戒律を信じていた。
だが、その信じるとは何か。
飾りに依存することを信じると言っている。
依存、
それは支配されること、
すなはち不自由、奴隷。
人は信じると語って「飾り」の奴隷になっている。
それが人間の姿なのか。
信じるとはそういうことなのか。
奴隷へと飲み込まれることにパウロは苛立ちを感じていた。
「我が神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか」
は十字架上のイエスの言葉とされている。
パウロはイエスに信仰を見た。
いい加減と思っていたイエスの振る舞い。
それは「人」の本質を表現している。
奴隷になっていない。
習慣にも、仕来たりにも奴隷になっていない。
「なにゆえ私をお見捨てになったのか」
神に素直に聞いている。
神の奴隷でもない。
主イエスは人々が執着するものに奴隷になっていない。
十字架を引き受ける
更には自分の体にも固執をしていない。
命の奴隷にもなっていない。
その主イエスはどうなったか。
十字架から三日目
死の奴隷にもならなかった。
信じるとは何か。
支配は乗り越えられる。
私は奴隷ではない。
その現実を見据えることを「信じる」と言う。
人はどう生きるのか。
信じる。
心に覚えることから始めたい。
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