5月10日礼拝
【9時礼拝】
西川良三神学生
ヨハネによる福音書15章18-27節
昔、この日本ではイエス様を信じることは、命がけのことだった。
キリスト教は外国の宗教 でイエス様を信じるとお殿様のことを敬わなくなるから危ないと思われた。
お侍さんたちが イエス様を信じる人をつぎつぎと捕まえ、
牢屋に入れ、ひどい目にあわせた。
イエス様ご自身もある人々から憎らしいと思われた方だった。
イエス様は、いろいろな人に 励ましと慰めを与え、また病気を治し、
たくさんの人があとについてきた。
イエス様は神様の 子だったのだが、それを信じないで、
癪に思った人たちによって、十字架つけられて亡くなっ てしまった。
イエス様に従ってきたお弟子さんたちはみんないったん逃げてしまったが、
やが てまた集まってきて、イエス様がよみがえられた、
イエス様は神様の子だと伝え始める。
弟子 たちは、そのことでひどい目に遭いながらも、
イエス様を信じる人が世界中にふえて教会が出 来、日本にも教会が生まれた。
日本では長い間秘密で礼拝を守り続けた人たちがいたが、
明治 時代になってようやく自由に教会に来ることができるようになった。
今は教会に来ても牢屋に入れられるようなことはない。
でも、神様の考えていることと、
世 の中で神様を知らない人々が考えていることと違うことがたくさんある。
この世界では強い 人、勝った人が偉い、負けた人、
不幸は人はその人がいけないんだ、と考える人も多い。
でも 、神様そうは考えない。
不幸な目に遭っても、辛い目に遭っても、
そのような人こそ神様が選 んで、その人のところに神様は来られる。
イエス様はみんなに見捨てられて亡くなったとい う一番の不幸を味わった方だ。
そのイエス様は実は神様の子で、今もわたしたちと共にいてく ださる。
そしてやがて、必ず力をくださる、と聖書は語る。
今日は母の日だ。
この母の日の始まりはアメリカの教会でアン・ジャービスという女の人が亡 くなった日の5月9日の記念日に、その娘さんがカーネーションを飾ったことからである。
そ の娘さんは苦労したお母さんに感謝の気持ちを表そうとしたのだ。
アン・ジャービスさんは 13人いた子供のうち、
最後は4人だけになってしまったという悲しみを味わった。
しかし神 様は、ジャービスさんに慰めと励まし与え、
彼女は教会のため、地域の医療活動のために一 生懸命取り組んだ。
母の日は今、世界中に広まっているが、
この日の始まりは、悲しみの中か らイエス様の力によって励まされて、
ほかの人のために一生懸命生きたお母さんを覚える日だ ったのだ。
大変な目に遭って、自分は世の中から嫌われている、
憎まれていると思ってしまうような 人のそばに神様はいて
「聖霊」という神様の力が注いで励ましてくださる。
そのことで元気づ けられた人を見て、
イエス様のことを知らなかった周りの人も初めて、
イエス様の働きの本 当の強さをわかる時が来るのである。
【10時・主日礼拝】
伊藤大輔牧師
ローマの信徒への手紙1章16ー17節
パウロは新しい世界の見方、
世界とは本当はこういう所
世界観を提示した。
その世界とはどういうものか。
一つの出来事から、それを考えてみたい。
荒野の誘惑
主イエスが活動を始める直前、荒野で40日間の断食をする。
筋肉は落ち、ただ精神だけが研ぎ澄まされた状態。
その時「試みる者」が主イエスの前に現れる。
主イエスと試みるの者とのせめぎ合い。
荒野の誘惑
ここにはぶつかり合う世界観が示されている。
試みる者が空腹の主イエスに囁く。
「お前が神の子なら、石をパンにかえろ」
なぜ苦しむのか。
なぜ我慢をするのか。
自分のために生きろ。
自分の力を自分のために使って未来を切りひらけ。
主イエスの答えは
「人はパンのみで生きるのでhはない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
神を大事にするというのはわかった
ならばと「試みる者」は主イエスを神殿の屋根に立たせる。
「ここから飛び降りろ。
聖書には「天使があなたの足を支える」と書いてある」
神を大切にするというのはわかった。
ならば、その神が本当にお前の味方か
いつでもお前を助けてくれるか、確認をしろ。
神の助け
その証拠を自分のモノにしろ。
これに対し、主イエスの答えは
「『神を試みてはならない』と聖書には書いてある」。
そこまで、神を思う、その目的はなんだ。
神を大切にし、神を信じる
その目的は見返りではないのか。
試みる者は世界の栄華を主イエスに見せる。
「もし、お前が私にひれ伏すなら、世界の全てをお前に与える」
神に期待し、神を思う
それはこの世界で神に守ってもらうこと
世界で成功すること
この世界を味方につけること
それが結局は「信仰」の中身なのではないか。
「試みる者」の言葉
その世界観
それは至極まっとうなもの
私たちの世界観と遠くない
むしろ同じと言っても良い。
その世界観に対して主イエスは言い放つ。
「退けサタン。ただ、神に仕え、神を拝む」
主イエスの世界観とは何か
試みる者の世界観とは何か。
試みる者が言った
「自分のために生きろ」
「神を確認しろ」
「取引をして世界を安住の地にしろ」
この提案の根底にあるのは世界に対する恐怖。
この世界観は「世界は怖いところ」
のんびりしていると世界の闇に飲み込まれてしまう。
闇こそが世界の真実の姿。
これに対して、主イエスの見ている世界
「空腹だからと言って、自分の力をめったやたらと使わない」
「心配だからと言って、神を脅したりしない」
「何かにすがって、世界の中で生き延びようともしない」
ここにある世界観な何か
世界は闇ではない。
この世界は神が造った世界。
ならば、この世界は明るく、平安に満ちている。
恵みあふれ、愛が根底ある。
だから、主イエスはジタバタしない。
パウロは若い時、世界を恐れていた。
だから勉強に励んだ。
律法を厳守することで、神の守りを、勝ち取ろうとした。
ところが主イエス、教会が持っていて、自分に欠落しているものをパウロは発見する。
信じていない。
神を、世界を信じる。
その信仰が自分にはない。
「信仰によって生きる」
パウロが人生の中で獲得した真実。
今日は母の日。
母を覚え、感謝する日
ただ、私たちの中には母親との関係がうまくいっていないものもいる。
母親を思い出したくても、その母の記憶がないものもいる。
それでも教会は「母の日」、母への感謝を大切なこととしてきた。
なぜなら、私がこの世界に
愛に満ちた、この世界に生まれてこられたのは母がいたからこそ。
この世界に私がいること
それを感謝する。
それが母への感謝。
不安な日々は続く。
それでも、この世界を信じていく。
今日、ここにいることを感謝する。
その心が私たちを次へ進ませる。
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