5月24日礼拝

伊藤大輔牧師

ローマの信徒への手紙4章1-3節 


 9時礼拝 


 パウロは人に一番大切なのは「信じること」だ、と言います。 

信じるて、なんでしょうか。 


パウロは昔の人ですが、

そのパウロより、もっと昔の人に アブラハム、という人がいます。

 パウロはこのアブラハムを使って「信じる」についてお話をします。 


 アブラハムと奥さんのサラ。 

この二人にはこどもがいませんでした。 

アブラハムの時代、

こどもがいないということは神様から見捨てられた、 と考えられていました。 

どんなに勉強ができても 

どんなに歌が上手に歌えても 

どんなにお仕事がちゃんとしていても 

こどもがいない。 

それは、きっといつかわるいことが起こるぞ、 と、みんなから思われていました。

 アブラハムたちもそう思っていました。 

神様から、自分たちは見捨てられたものなのだと。  


自分には足りないものがある。 

アブラハムの気持ちを私たちも想像してみましょう。 

足りない。 

お友達と比べて、

サッカーがうまくない 

ダンスが上手に踊れない

友達は上手にできる力があるのに、

自分にはない。 

私は足りないものだ。 

私たちは、自分には足りないものがある、と思いだし、

そのことばかりに心がとらわれると、どうなるでしょうか。 

自分は足りない。 

自分はちゃんとしていない。 

だんだん、自分のことが好きでなくなります。 

自分のことが嫌いになっていきます。 

自分のことを憎むようになっていくでしょう。 

私なんか消えてしまえばいい。 

自分は足りないものだ、

そう思っていたアブラハムの前に神様がやってきます。 

「来年の今頃、あなたたちにこどもが生まれている」 

アブラハムたちは、最初、その言葉がわかりませんでした。 

妻のサラはクスッと笑ってしましました。 

そんなことがあるものか、と。 

でも、アブラハムたちは、その言葉を信じました。 

その姿勢を見て、神様は「それでいいんだ」とおっしゃいます。 


神様の言葉を受け入れたから、「いいんだ」ということもあるでしょう。 

それよりも、もっと大切なことがここにはあると思います。  

自分は足りない。 

そう思っていたアブラハムは自分のことが好きではなかったでしょう。 

こんな私、どうしているんだ。 

そのアブラハムが、自分には足りないものが与えられる日が来る。 

自分はもう足りないものではない。 

そう思えたら、もう自分を嫌う理由はなくなります。 

自分のことが好きになります。 

 私はちゃんとしているものだったんだ。 


パウロは信じることが一番大切だ、と言います。 

それは、自分を好きでいること、

それが一番大切だ、といくことでもあります。 

自分を好きでいる。 

そのためには信じることが必要なのです。  


私はちゃんとしている。 

神様から作られた私はちゃんとしている。 

信じて、進んでいきましょう。 



 主日礼拝  


パウロはローマの教会にあてた手紙で「信仰」がもっとも大切なものだと、語る。 

先祖アブラハムを用いて「信仰」の大切さを語る。 

アブラハムには子どもがいなかった。 

それは神に祝福からもれているもの、と考えられていた。 

欠落しているもの。 

満たされた人生を送れないもの。 

不良品としての私。 

それがアブラハムの自己理解となっていた。  


聖書は一つの出来事を向かい合っている。 

アダムとエバが楽園で蛇に唆されたこと。 

この出来事と向かい合っている。  

アダムとエバは神と約束をする。 

「善悪の知識の木」の実 これを食べてはならないと。


 蛇は彼らを唆す。 

それを食べるとあなたたちは神のようになれる。 

完全なものになる。 

すなはち、今のお前たちは不完全なのものだど。 

これはもちろん偽りの言葉。 

蛇が設えた話 

意図的に設えたもの 

仮想現実 

ヴァーチャルリアリティ。 


ところが人はこのヴァーチャルをリアルだと思い込んだ。 

そこから聖書は始まる。 


人はどうしたら、蛇の設えたヴァーチャルから、

神の作られたリアルの世界に変えることができるのか。 


自分には欠落しているものがある。 

この言葉がヴァーチャルだと言われても、

私たちは、自分を振り返れば、これは本当だと思わざるをえない。 


人と比較しても、自分自身を確認しても、自分の欠落ばかりが目につく。 

蛇の言葉が本当だと思えて来る。  

欠落がある。 

これが世界の現実だと思った時、人は憎悪を抱え始める。 

欠落した、不十分の私に呆れ、やがて嫌いになる。 

資源、経済力を持っていない自分の町を、国を、批判し、嫌いになっていく。 

自らを嫌い、それを持っているものから奪おうとも考え始める。 

愛国心が戦争を引き起こすと言われるが、本当だろうか。 

自らを憎むものが「戦い」を是とするのではないか。  

私は欠落している。 

欠落の可能性を常に秘めている。  

「欠落」が世界にあると思えれば、蛇にヴァーチャルはどうしたってリアルに感じる。  


どうすれば、リアルへとたどり着けるのか。  


欠落をしたアブラハムの所に神がやって来て、約束をする。 

「来年の今頃、お前たちに子どもが生まれている」と。

にわかには受け入れがたい言葉であったが、彼らはそれを「信じた」と聖書を記す。 

どのようにしてヴァーチャルからリアルの世界に帰ってくることができるのか。 

信じることだ、と聖書は告げる。 

アブラハムにとっての欠落、子孫。 

それは補わられる。 

足りないままの状態ではない。 

その後、彼らの子孫は星の数ほどの広がって行く。

未来へと進んでいく。


 それはアブラハムの話ではない。 

私たち一人一人の話。 

 私たちは足りないものではなく、

全てが整っているもの。  

蛇に唆されたアダムとエバが忘れてしまっていたもの。 

アブラハムが取り戻したもの。 

「信じる」 

それが、神の造った全てがちゃんとあるリアルへと私たちを導いて行く。


私たちを未来へと進めていく。

時間が過ぎるとことを未来というのではない。

新しい現実を創り出すことを未来と言う。


 憎しみや怒りが正しいとされそうな世界の中にあって、 

真の世界のあり方、私の姿、 未来へと進む道。

信じるを知っている心がそれを明らかにする。      

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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