10月4日礼拝

伊藤大輔

創世記1章28ー31節 

創世記。 

世界誕生の物語。 

神は言う。 

それはそのようになる。 

それを見た神が「良し」とする。


創世記1章はその繰り返し。 

世界とは何か。 

神が「良し」と言われた世界。 

足したり、引いたり、何かを必要としない、 

何も不足のない世界。 

良い世界。 

人はこれを忘れないようにしようとする。 

忘れないために決まりごとを作っていく。 

どんな状況になろうとも、どんな時代になろうとも忘れないためのもの。 


先の見えない現代。 

この状況にどのような対応をすれば正解なのか 答えがは見つからない。 

ただ、このような状況は人類史上、初めてのことではない。 

聖書の民もこれは知っている。 

いかなる状況がきても対応できるもの。 

それが法として定められていった。  

6日働き、7日目に休む。 

安息日を守る。 

礼拝をささげる。 

決まりごと。 

それを守っていれば大丈夫と信じていた。  


イエスは春にイチジクの木に近づく。 

空腹のためイチジクの実はないかと。 

春にイチジクは実をつけない。 

だから何もなかった。 

これに対しイエスは呪う。 

「今からのちお前が実をつけることはないように」と。 

イチジクのどこが悪いのか。 

イチジクは自らの決まりを守っただけ。 

どこも悪くない。 

だが、そこには実はならない、と聖書は言う。 


ベトサダの池のそばでたたずんでいる足の不自由なもの。 

池に入れれば自分は健康になると思っていた。 

しかし誰も池に入れてくれるものはいない。 

その者にイエスは言う。 

「とこを担いで歩け」と。 

するとその者は立ち上がり歩き出す。 

その日、街で荷物を持って歩いているのはこのものだけ。 

すぐにユダヤ人に捕まって咎められる。 

「安息日に何をしているんだ」と。  

イエスが私に「歩け」と言ってくれた。 

ユダヤ人は今度はイエスに向かい叱責をする。 

「安息日は神が休まれた日。これを否定するとは何事か」。 

これに対しイエスは 「父は今も働く。だから私も働く」

  

これは明らかに聖書の言葉と矛盾する。 

言葉の正確さならばユダヤ人たちこそ正義である。 

それゆえこれを契機に彼らはイエスを殺す決意をする。 

正義は我にあり。 


 安息日に神が休んだ。 

ここにイエスは神が働きを見ている。 

決まり通りに行っているイチジクに実はならないとイエスに言われる。 

イエスは何を見ているのか。 

創世記、天地創造。 

神はこの世界を「良い」と言った。 

他に何も必要ないとした。 

足の不自由なもの、池が必要と言っていた。 

何も必要ない、とイエスは立ち上がらせた。 

イエスはこの者に何をしたのか。 


神はこの世界に何をしたのか。 

 表面上、世界を造った。 

奇跡を行った。 

 その内実は何か。 

 愛した。 

 神はこの世界を愛し イエスは足の不自由なものを愛した。  

1日目から6日目まで働く。 

7日目は休まれた。 

行いとしては「働く」「休む」真逆のこと。 

それでも神は何も変わってはいない。

世界に積極的に関わろうが、 あたかも放置しているかのように何もしなかろうが、 

神は何も変わっていない。 


この世界で答えが見つけられずに私たちは希望を失いつつある。 

何をすれば良いのか。 

何をしてはいけないのか。 

その答えが見つけられない。 

 する、しない どちらでも良い。  

神を愛し、隣人を自分のように愛する。 

愛することなしに、何かを初めても「実」はつかない。 


愛する。  

ただそれだけで闇の向こうへ進んでいける。 

神が「良し」とした世界 それが本当だった、と確かめられる。 



日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000