10月11日礼拝

伊藤大輔牧師

創世記2章7ー9節 

 人間とは何か。 

聖書は創造物語を通して「人」について語る。 

人は土塊 それに神の息が吹き入れられた。

神の息が吹き入れられた「人」は何ができるのか。  


人はエデンの園で食べることにも困らずに過ごしていた。 

園の中央に生えている「命の木」と「善悪の知識の木」。 

この「善悪の知識の木」その実を食べてはならない、 と神の戒めを受けていた。  

私たちも知っている通り、この後、人はその実を食べてしまう。 


創世記1章では神はこの世界を見て「良しとされた」とある。 

ならば、どうして人が食べてはならない「木」が生えているのか。 

もっというならば、なぜこの世界には「悪」があるのか。 

私たちの努力を吹き飛ばしてしまう「災害」があるのか。 

そのようなものがあるのに「良い」とはどういうことか。 

聖書は偽りを語っている。 

神などいない。 

私たちはそのような判断を下したくなる。 

だがそれでも聖書の神は「良い」と言う。 

「悪」があっても 「災害」があっても 

それも含めてこの世界は良いのだと。 


世界には「良い」「悪い」がある。 

人は「良い」ものが選択できるように努力をする。 

教育も、法も、人が良いものを選択できるようになるためのシステム。 

私たちは「良いもの」「答え」を知っている。 


新約聖書にその手紙が収められているパウロ。 

このパウロが記した「ローマの信徒への手紙」 

ここでパウロは読者である「異邦人」「ユダヤ人」 この両者共に肯定もし、批判もしている。 

パウロはこの両者を決定化していない。 

答えを出していない。 


同じパウロが記したフィリピの信徒への手紙。 

ここでパウロは「生きるのがいいのか、死を選ぶべきか分からない」と言う。 

また「富んでいても貧しくてもどちらでも平気だ」と言う。 

あるいは「正しくキリストが宣べ伝えられていても、

悪意を持って語られていても、どちらでもいい」と言う。 

パウロは答えを出していない。 


どちらでもいい。 


「答え」は人が据えたものと、捨てている。  

私たちはアダムとエバに反省を求めたい。 

どうして「知識の木の実」を食べたのか。 

あのまま食べないでエデンの園で暮らしていれば カインもアベルを殺さなかっただろう。 

十二人の兄弟もバラバラになることはなかっただろう。 

私たちだって楽園に暮らせたのに。 

どうして木の実を食べたのか。 


木の実を食べて、それまでの生活は失った。 

楽園を追放された。 

だが、彼らに起こったことはそれだけ。 

神は相変わらず彼らに声をかけ、彼らを守っている。 

楽園を出た人に愛する一人子を送るほどに愛している。 

楽園で暮らそうが、楽園から追放されようが、神は人と共にいる。 


食べないと言う一つの答えはあった。 

だが、その答えに失敗をしても、少々の環境に変化はあるが、基底は変わらない。 

どちらでもいい。 

どちらから行っても どこから行っても 人は行くべきところに行ける。 


神の息を吹き入れられた人は何ができるのか。 

どこを通っても行くべきところに行ける。 

人間とは何か。 

神の守りから片時も滑り落ちないもの。 



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