10月18日礼拝

9時礼拝

伊藤大輔牧師

創世記3章1ー7節 

創世記は世界の始まりの物語。 

時間の始まりと言うより、 

「世界の根っこの根っこには何があるのか」を語る物語。 


世界の根っこ。 

そこでは神様が「これでいい」と言う言葉が響いている。 

世界の根っこには「いい」がある。 

ところが、その根っこから、私たちが住む世界の表面になるとどうなっているか。 

争いがあり、偽りがあり、理不尽がる。 

「よくない」 「悪い」「だめ」がこの世界の表面にはあふれている。 

「根っこ」と「表面」 どうして、こんなにも変わったしまったのか。 

 それを語るのが今日の聖書。 


エデンの園で何不自由なく暮らしていたアダムとエバ。 

そこに蛇がやってきて、女に話しかける。 

「神は園の木の実を食べてはならない、と言ったのか」。

 女は答える。 

「神様は何を食べても良いが、中央にある善悪の知識の木の実、これを食べてはならない。

これを食べると死んでしまう、と仰いました。」 

これを聞いて蛇は 

「そんなことはない。それを食べると神のようになれる。それを神は知っているのだ」。 

そう言われて、女は改めて善悪の知識の木を見つる。 

すると、蛇の言った通り、食べると何か力が湧いてくるように思えてくる。 

そこで女はその木の実を手にして、カリッと食べる。 

何も起こらない。

平気だ。 

女は男のところへ木の実を持っていく。 

男も、その木の実を食べる。 

すると、二人の目が開け、

自分たちが「裸」だと気がつき、大急ぎで、イチジクの葉っぱで服を作り、身にまとう。  


根っこでは「良い」世界がどうして、表面にくると「いけない」世界になってしまうのか。 

それは人の心の中に起こったことが原因。 

蛇と出会って、人は自分も神様のようになれるのでは?と思い始める。 

人は自分は神様ではない、と知っている。 

神のように、

それは今の自分より、もっと立派に、もっと上へ、と思うこと。 

上へ行くためには、必要なものがある。 

自分には足りないものがある。 

それを手に入れろ。 


自分には木の実が足りない。 

成績が足りない。 

仲間が足りない。 

お金が足りない。 

それを得るために考える。 

 成績をあげること、勉強や、スポーツを頑張ること。 

それは大事。 

自分には足りないものがある、

そう自分を考える時、自分の心の中に何が起こっているのか。 

足りない。 

自分はダメ。 

ダメな自分は嫌い。


私には足りないものがある。 

その時、心の奥底で、自分のことが嫌いになっている。 

足りない。 

自分が嫌いで足りないものを手にしようと頑張る。 

自分が嫌いなのだから、人も嫌い。 

嫌いな人には何をしても良い。 

だましても、傷くけても、争いをしてやっつけても、嫌いだから、なんでもできる。 


世界の根っこと表面が別のものになっている。 

神様は私たちを「良い」と言った。 

それは私たちがちゃんとしているということ。 

私たちは勉強をする。 

スポーツも励む。 

その時、私たちの心に必要なもの。 

私はもうちゃんと持っている。 

それを磨く。 

自分を磨く。 

好きな自分を磨いていく。 

自分が大好き。 

その心はお友達も誰をも大好きになっていく。 


アダムとエバが作ったイチジクの葉っぱで作った服。 

それも二人が「足りない」と思ったから。 

自分をきれいに見せるもの。 

服、力、富。 

必要。  

私たちは毎朝、服を着る。 

その時、自分に聞いてみましょう。 

良い服を着ているから私は自分を好きなのか。 

服ではなく、私が好きなのか。 


神様が「良い」と言われた「私」。 

何もなくても私は私を好きでいられる。 

この世界の根っこの根っこにあるもの。 

私を好きでいる心。 

根っこの根っこにあるものを表へと現していく。 



主日礼拝

 西川優子神学生

創世記3章1~7節  

本日の登場人物は、蛇と女、そして最後に男、であるかのように見える。

しかし、実は 一番、忘れてはいけない方が1節に書かれており、

この存在があるかないかで、話は全く 違ってくる。

大事なのは、この「主なる神が造られた」というところ。

今日の場面では姿 は見えないが、たしかにいらっしゃる「主なる神」。

もともと蛇は、神様によって作られ た存在。

しかし、せっかくいただいた、誰よりも賢いその賢さを、神様の悪口を言って、 

女を騙すために使う。 


蛇の話の持って行き方は、実に巧みである。 

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

これは、なんとな く先入観を持たせる聞き方。

「神様って、あれもいけない、これもいけないと言って、

人 間を不自由にする、実はひどい方なんじゃないの?」というような聞き方。 

女の答えは、蛇のワナにかかったように、

一つだった禁止事項(食べてはいけない)を 、勝手に二つ(触れてもいけない)にしてしまう。 

蛇は次の手に出る。

「食べても、神様の言うように死ぬことはない。それを食べると、

 目が開け、神のように善悪を知るものとなることを、神はご存じなのだ。」 

これはつまり、神様は、人間に知恵を授けることを惜しんでとそう言われたのだ、いう 悪口。

悪口を、人は信じやすい。 

女は何だか気になって来て、その木を改めて見ると、

今までとは違っておいしそうで、 賢くなるように見えてくる。 

「賢くなる」それは大きな誘惑。

今の自分に不足、不安を感じさせ、「あなた、そのま まじゃダメですよ。」と言ってくる。

そして、「それはこれで解決しますよ。」というお 手軽な方法を示してくる。 

さて、女は、はその実を取って食べ、一緒にいた男にも渡した。

自分だけが悪者になり たくないから?それとも、おいしかったから? 男も、その実を食べた。 

男はそばにいて、これまでの話を聞いていたが、女が騙されて木の実を食べるのを止め なかった。

それは、彼も同じように、蛇のいう事を信じてしまい、

実は自分たちは神様に 騙されていたのだと思ったのだろう。

違う言い方をすれば、神ではなく、蛇を信じた。

そ れこそ、蛇の思うつぼだった。 

二人はこの時、「死ぬ」とはどういうことか、まだ知らない。

しかし、知らなかったと は言え、この時この二人はそれを選んでしまった。

それは、これまで神様に何の隠し事も 持っていない、悩みの無い生活を送っていたのに、

神様に内緒で約束を破ってしまったこ とで、初めて経験したうしろめたい気持ち。

それはつまり、自分たちを信用してくれてい る方を裏切ったという、その方との関係の「死」を意味する。 

もちろん悪いのは、騙された女や男ではなく、蛇です。

しかし、この蛇という存在、こ れを通して、創世記が、私たちに伝えようとしていることは、

神様の存在。 

この世は蛇だらけ。

誘惑やワナだらけ。

その中で、神様なんているのかいないのかわからない。

では、どうするか。

いないことにするのか。

それとも必ずきっと、いらっしゃる のか。 


女も男も、その時、神様の存在を思わず、蛇だけを見て、

その結果、蛇に騙されてしま った。

そうして、ハタと自分たちの姿に気が付く。

神様に対して、秘密ができてしまった 。

隠さなければならないことを持ってしまった。

だから、イチジクの葉っぱをつづり合わ せて、

これまで恥ずかしいと思ったこともなかった部分を、隠したくなった。 


私たち人間の現実を、創世記はよく見ている。

その弱いところを余すところなく書いて いる。 

蛇が目指したのは、人を神様から引き離すこと。

それは今、成功したかに見える。

しか し、本当にそんなことが、できたのだろうか。 

この後も人間は、神様に背いて、いろいろな過ちを繰り返し、神様は何度も心を痛める 。

とうとう、どんなにつぐなっても償いきれないほど大きくなり、

イエス様が十字架にか からなければならないほどになった。

しかし、イエスは復活された。

神様は人間を愛する ことをやめなかった。

蛇の勝利とは、ならなかった。 

一見、親切そうに、しかし人の悪口を言ってくる人、つい信用しそうになる。

しかし、 立ち止まり、神様に聞いてみよう。

その時私達は、何が本当なのかを知らされる。 

だから、試みの時、私たちは神様を呼ぼう。

神様に聞こう。

神様に祈りが届くその道は 、イエス様が作ってくださったから。


日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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