10月25日礼拝
創世記6章1ー8節
ノアの洪水物語。
神様がこの世界を嘆いて、全てを滅ぼす。
ただノアの家族と一つがいの動物たちだけば方舟で生き残る。
聖書の中でも有名な物語。
ノアのように神様に素直に従うものであれば救われる。
そのような物語としてここを解釈することが少なくない。
だが、それが物語の意図なのか。
洪水が引いた後、ノアたちが新しい地上に降り立つ。
その時に神様がノアに語った言葉。
「私は二度と地を呪うことはしない。
人は幼い時から悪いのだ」
人が悪くても、もう裁かない、ということだろう。
ありがたい言葉だが、読者は言いたくなる。
「人が悪いから洪水を起こしたのではないのか。
悪いが今度は裁かないでは、死んでいったものが浮かばれないではないか」
この神の不可解な態度は実はこれ以前から続いている。
洪水物語の直前の話は「カインとアベル」の物語。
兄のカインが弟アベルを殺すという話し。
そもそも何故、カインは弟のアベルを殺したのか。
兄弟が一緒に捧げた神への贈り物。
神はアベルの方を喜び、カインのものには目も止めない。
怒ったカインが、アベルを殺してしまう。
何故、神はカインのものに目を止めなかったのか。
私たちはその理由を聖書から探そうとする。
だが、はっきりとは何も記されていない。
どうしてカインは疎んじられなければならなかったのか。
道理が通っていないではないか。
そのカインの両親のアダムとエバ。
この二人が神様と約束していた食べてはならない「善悪に知識の木」。
確かに約束を破ったアダムとエバは悪いが、神は全能なのではないのか。
アダムとエバが木の実を食べることは分かっていたはず。
そもそも食べてはいけないものをどうして生やしたのか。
唆した蛇も神が造ったもの。
何故、蛇を造ったのか。
納得のいく説明が欲しいところ。
神様のしていることは「理」にかなっていない。
物語に連続してくる神の姿勢。
ならば、こういうことであろう。
物語はそこへ読者を導こうとしている。
人が食べた「善悪の知識の木の実」。
神様はこれを食べるなと言った。
それは「善悪の知識」これは人には負えないという意味とも取れる。
私たちは「善悪」の判断が出来ていると思っている。
その判断によって、怒ったり、笑ったりしている。
その判断いよって、神の一連の動きには「道理」がないと感じている。
だが、それは正しいのか。
私たちの「善悪」の判断は絶対なのか。
イエス・キリストは十字架にかかる前の晩にゲッセマネの園で祈られた。
「にがき杯を取りのけて欲しい」と。
にがき杯とは十字架のこと。
この祈りは主イエスのどのような心を表しているのか。
十字架を納得していない。
人を助け、律法の正しい解釈を説いていきた。
異なる解釈をしていた律法学者、祭司たちとの衝突は致し方ない。
ただ、本来一番喜んでいいはずの神様が黙って何もしない。
十字架を黙認している。
道理に合っていない。
不条理。
その受け止めが主イエスの祈りの言葉として出てきているのだろう。
そして、主イエスは「御心通りになりますように」と祈りを結ぶ。
この世界には不条理がある。
創造物語だけではない、至る所に不条理は散乱している。
正直者が報われず、 偽りで固めたものが成功をおさめる。
この世界は間違っている。
私が世界を正そうと、怒りで立ち上がる。
あるいは世界に絶望をする。
どちらもが不条理に対しての態度ではあろう。
だが、その「不条理」との判断は私の中の「善悪」が基準。
その善悪は絶対か。
人が善悪の知識の木の実を食べる前、
すなわち神様が世界を創造された時、神はこの世界を見渡して「これで良い」と言われた。
私たちはその後の世界を見つめて「これではダメだった」と言う。
神が「良し」と言った世界は何処かへ行ってしまったのか。
違うだろう。
人がエデンの園で知識の木の実を食べている時も
カインが弟を殺しても、
洪水が押し寄せてきている時も
全てが「良い」。
私たちは神に不条理を感じる。
創造物語も不条理を並べている。
矛盾があり、生合成がない。
だが、それは私たちのスケールでの現実認識。
人の善悪という小さい判断。
神の「良い」はどんな時もどんな所でも響き続いている。
人にとって「不条理」と思えるもの。
それを主イエスは引き受けた。
引き受けて十字架にかかり三日目に甦り、永遠の命を示された。
人のスケールでは「永遠の命」を不老不死と翻訳する。
それは違う。
「永遠」とは時間、空間に縛られないもの。
時空が連続する不老不死とは基準が違う。
人の理解、判断は、時空で展開している。
時空を超えるもの、もはや想像すらできない。
その想像もできないところに私たちの「命」はある。
神の振る舞いは人には不条理に思える。
世界には不条理が満ち溢れていると思える。
その不条理を退治することが人の道理と思えてしまう。
だが、その不条理を受け止める。
主イエスのように引き受ける。
不条理を引き受けても大丈夫なように私たちは出来ている。
不条理を引き受けてはじめて私の「道理」を超えていける。
神の御心を垣間見られる。
人の予定した「喜び」ではない。
まことの喜び、 いつも喜んでいる私。
必ずその私になれる。
それが天地の初めから約束されていること。
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