11月1日礼拝

ヨハネ福音書13章1ー8節  

主イエスは最後の夜に弟子たちの足を洗い始める。 

「洗足」 

この話はヨハネ福音書にしかない。 


ヨハネ以外の三つの福音書 「マタイ」「マルコ」「ルカ」 

この三つの福音書は主イエスの最後の夜の出来事として 最後の晩餐、

聖餐式の原型になった物語を記している。 


この違いを読者たちは次のように考えてきた。 

ヨハネは聖餐式をそのままの形で記さない。 

それは三つの福音書とヨハネの置かれていた状況が違うから。 

三つの福音書は聖餐式の原型をそのまま記せば読者に大切なことが伝わった。 

ところがヨハネの時代には、原型を記しても、伝わらない状況になっていた。 

その大きな原因はおそらくはローマ帝国によるエルサレム神殿の崩壊、 

その後のイスラエルへの支配が考えられる。  

人々の実感は 「神は守ってくれない」 その現実の中でヨハネは記された。  

形を語っても読者に届かない。 

内容を伝える必要がある。 

聖餐式、洗礼式、 教会が大切にしている儀式の意味とは何か。 

それが「洗足」の物語で語られている。 


 洗足 汚いものを洗い落とすこと。 

「汚い」とは何か。 


食事の最中に醤油を服にこぼしてしまう。

慌てて、シミにならないように手当てをする。 

きれいにする。 

汚くならないようにする。  

醤油は口にしていたもの。 

汚いものではない。 

それがどうして服につくと汚くなるのか。  


場所が違うから。 

あるべき場所 

本来の場所と違うところにあるものを私たちは「汚い」と表現する。  

人の心に本来そこにあってはほしくないものが張り付いている。 

過去の記憶、 経験、 失敗、 過ち。 

張り付いていてほしくないものが張り付いている。 

汚いものが張り付いている。 

 人はそれを剥がそうとする。 

しかし、それを取り除くことができない。 

それに届かないから。 

さわれないから、それを除けない。 

見ないように蓋をして抱えて生きる。 

人から指摘されれば、前に進むことが困難になるもの。 

自分で思い出し、自覚をしても辛くなるもの。 

届かないから、抱えて生きる。 


なぜ届かないのか。 

過ぎ去ってしまった「時」の中にあるから。 

人は過去に行くことができない。 

今の私と「過去」との間には乗り越えられない距離がある。  


ヨハネ福音書にはある思想、哲学がある。

この福音書にある二つの物語を紹介する。  

一つはカファルナウムの王の役人の話。 

病気の息子を抱える役人。 

隣町のカナに主イエスが来たことを聞きつけた役人は

なんとか自分の家にイエスを連れて行こうと願い出る。 

これに対して主イエスは「息子は生きる」とだけ言って、この役人を帰らせる。 

願いかなわなず一人帰路につくが、その道中で召使たちが迎えに来ていた。 

何事かと案ずると「息子の熱が下がった」と聞かされる。 

熱の下がった時刻を確かめると、

「昨日の午後1時」。 

それは主イエスが「息子は生きる」と言ったその時刻だと知り、

彼らは信仰を持った。 


もう一つの物語はサマリアの女と主イエスの対話。 

スカルの井戸を巡って主イエスとサマリアの女が話し始める。 

サマリアと主イエスの国ユダヤとは当時交際をしていなかった。 

主イエスから話かけられ女は戸惑い、距離を置こうとする。 

ところが自分の身の上のことを言い当てられ女は主イエスにこれまでの疑問をぶつけてみる。 

神を礼拝するところはどこですか。 

本当のものに出会える場所、 本当のものがあるところはどこですか。 

「あなた方ユダヤ人はエルサレムだと言う。私たちサマリア人はあの山だと言う」 

「どちらが本当なのか」。

 主イエスは答える。 

「あの山でもエルサレムでもないところで礼拝をする時が来る。 今がその時だ」と。

この二つの物語に共通をしていることがある。 

役人の息子の癒しで読書の注目を引くのは主イエスが言葉を発した時に熱が下がったこと。 

言葉と出来事、 同時に起こっている。 

同時。 

時間差がない。 

隙間がない。 


エルサレムか、あの山か。 

距離を女は聞いた。

イエスの答えはエルサレムでもあの山でもない。 

ここ、あそこではない。 

距離はない。

隙間がない。 

ヨハネ福音書に流れている一つの哲学。 

この世界には「隙間」「間」はないという世界観。 

違いはない。 


心に張り付いた余計なもの。 

人はそれを触れないでいる。 

今と過去の間に距離があるから。  


主イエスは弟子の足を洗う。

直接、触れる。 

距離はない。 

れが本当の世界の姿。 

洗い落せるどんなものも。 

全てのものを本来の場所へ治めることができる。 

きれいにできる。 

誰の心も 

私の心も 

きれいになっている。 


教会が大切にしている聖餐式、洗礼式。 

この儀式で人が経験できること。 

私と神との間に距離はない。 

「私」と「きれいな私」との間に距離はない。 

私の中に入り込もうとしている「死」という断絶、隙間も、もはや入り込めない。 

「神は守ってくれない」と思えるその時も神はいる。

離れずいる。 

隙間はない。 

距離はない。 


永遠 

私はいつでも神に似せて造っていただいたきれいなもの。 

それを思い出し、信じる心を呼び覚すのが洗礼式、聖餐式。  

教会が守り続けてきたもの。 

私たちも守っていく。 

この世界の礎になると信じ守っていく。 



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