1月17日 礼拝

9時礼拝

西川優子神学生

マタイによる福音書4:18~25

一番最初にイエス様のお弟子さんになったのは誰だったでしょう?

ペトロとアンデレ兄弟ですね。この二人は湖で仕事中でした。網で、魚を取っていたんで

す。

 そこにイエス様がやって来て、言われます。「わたしについて来なさい。君たちを、人

間を取る漁師にしよう」

 この言葉、人間をお魚みたいに網で一度に取るなんて、なんだか変だな、と私はずっと

思っていたんです。

でも先週、折り紙で魚を捕る網を作って、その網を見ながら、

この個所を読んでみたら、気が付いたことがあります。

それは、網と言っても、ここでイエス様が言われていることは、ちょっと違うぞ、ということです。それはもう少し後でお話します。

 

さて、「ついて来なさい」と言われて、ペトロとアンデレはどうしたでしょう?

すぐに網を捨ててイエス様について行きました。

つぎに出会ったのがヤコブとヨハネ兄弟です。この二人は、おとうさんと一緒に、網の修

理をしていました。いろいろな網を持っていました。その二人にもイエス様は呼びかけま

す。

 すると、この二人も、すぐに舟とお父さんを一緒に働いている人たちに任せて、イエス

様について行きます。

 言われてすぐについて行った弟子たちですが、イエス様の方も、試験もしないでいきな

りこの人たちを弟子にしています。

誰でもいいんでしょうか。

誰でもいいんです。

イエス様は、出会った人には誰にでも、

「私について来なさい。君たちを人間を取る漁師にしよう」と言われます。

今、言っている、という書き方で、ここのところは書かれているからです。


今の教会でも、同じことが言えると思います。

私たちは教会の礼拝でイエス様に出会う、という言い方をします。

なぜかと言うと、教会で聖書が読まれ、イエス様のことを伝え聞くことで、今までとは違う考え方、つまりイエス様の言葉に出会うからです。

逆に言うと、私たちはイエス様が出会ってくださった者だ、と言うこともできます。

その私たちに、イエス様が言われるのです。

「私について来なさい。人間を取る漁師にしよう」と。

 

さて、この「人間を取る漁師」という言い方ですが、

実はその時使う網は、人間を捕まえるためではなくて、人間を助けるための網ではないか、と私は思いました。

よくサーカスの空中ブランコや、トランポリンの練習をする人が、落ちても大丈夫なように、周りに網を、張り巡らしているでしょう?ああいう網です。

どうしてそう思うかと言うと、この後の聖書を読むと、

イエス様は、ガリラヤ中で神の国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や苦しみから、たくさんの人を助けたからです。

それは、魚を取る仕事ではなくて、人を助ける仕事。

この時のこの働きは、イエス様が一人でなさったことですが、いずれペトロやアンデレ

に、ヤコブやヨハネにも、神様の力が働いて、人を助ける仕事ができるようになるよ、と言

われているのだと思ったのです。

網を使う仕事は、一人ではできません。

ひっぱりあげる時、一緒に働く仲間が必要です。

だから、イエス様は「君たちを」「人間のための漁師にするよ」と言われたのです。

人は魚とは違います。

一人一人名前があり、イエス様に呼ばれて「一緒に行こう」と招かれています。

その時、これがないと私はダメと思っている大事なものがなくても、イエス様と一緒にいれば大丈夫。

もっと素晴らしい世界を一緒に作って行ける、イエス様について行くために、持っていなければならない物は何もない。

手ぶらでいい。

それがわかって、ペトロたちは立ち上がったのです。


私たちも礼拝で、イエス様に出会います。

いいえ、イエス様の方から、私たちに出会ってくださいます。

そして「私についておいで。

一緒に行こう、人のために働こう」と呼びかけられています。

一緒に働く仲間が、そこにはいます。



主日礼拝

伊藤大輔牧師

マタイによる福音書4章1−11節

イエスの活動は荒れ野で悪魔から誘惑を受けることからから始まっている。

誘惑との戦い。

それがイエスの活動の基底にある。

それはイエスのみでなく、私たちの基底でもある。

悪魔の誘惑とは何か。


イエスは40日間、断食をした後に悪魔がささやきかける。

「お前が神の子なら石をパンに変えて食べれば良いでないか」

空腹、苦難、命の危機。

自分の力で生きろ。

悪魔は当たり前のことを言っている。

自分の力で生きろ。

なぜ、悪魔はそう語るのか。

神は何もしてくれない。

神は黙っている。

そんな神に期待している暇があったら、自分で解決しろ。

イエスの答えは旧約聖書の引用。

「人はパンのみ生きるのではない。

神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。


悪魔の誘いを退けたイエスであったが、悪魔も引き下がらない。

今度は悪魔の聖書を引用する。

神殿の屋根の端にイエスを立たせて「飛び降りろ」と言う。

「『天使があなたを支える』と聖書に書いてあるではないか」と。

これに対しイエスは別の聖書の箇所を引用する。

「『神を試みてはならない』とも書いてある」。


同じ聖書の言葉。

同じく大切な言葉。

それなのに何故、イエスは選択をしたのか。

一方を退け、他方を選んだのか。

その答えが次の悪魔とのやり取りにある。

悪魔はイエスの世界の栄華を見せて誘いかける。

「お前が、私を拝むなら、この世界の全てをやろう」と。

これに対してイエスはまた聖書を引用する。

「『あなたの神に仕え、神を礼拝しろ』とある」


なぜ、イエスは悪魔と違う聖書の箇所を選んだんか。

神が何もしてくれない状況にあって、なぜ悪魔と異なる選択をするのか。


悪魔とイエス。

根底には何があるのか。

神が何もしてくれない現実にいる。

悪魔の提案は積極的に自分で動け。

自分で解決しろ。

パンを作りだせ。

神を試せ。

神でないとわかっていても得になるなら取引をしろ。

ここに悪魔の志向性がある。

神など待っていても無駄だ。

信じられない。

神を、この世界を信じていたらダメになる。


これに対してイエスの答えにも一貫性がある。

神の言葉によって生きる。

神を試みない。

神に仕える。

信頼している。

イエスは神を、この世界を信頼している。


1月17日

26年前に私たちの国は震災に見舞われた。

神は何をしているのか。

神などいない、と誰もが思った。

その現実は今も変わらないし、これからも起こる。

イエスも、聖書の民も、耐えがたい現実と直面をしていた。

ローマ帝国の圧政。

国土、歴史、アイデンティティの喪失。

神は何もしてくれない。

悪魔の言葉に傾倒するものは少なからずいた。

それが正しいと思われた。

だが、それであっても、何も根拠はなくとも信頼する。

この世界を信じる。

それがイエスの態度。


信頼しきったイエス。

このイエスに天使たちは仕えていった。

神の期待しているものとなっていった。

何もしない神だからこそ問われているものがある。

この世界とどう向き合うか。

その問いが「私」の基礎を築く。




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