2月7日 礼拝

伊藤大輔牧師

マタイ福音書5章1−12節

イエスは言う。

「迫害されているものは幸いだ」と。

「義のために飢え乾くものは幸いだ」と。

山上の説教の始まり。


常識的には幸いなものではない。

できることなら、そのような経験はしたくないと誰もが願う。

なぜ、イエスは現実の世界で「避けたいもの」「経験したくないもの」を「幸い」と言うのか。


ユダヤ・キリスト教は大きな問いを投げかける。

聖書の始まり。

アダムとエバ。

彼らは自分の不足を補おうとした。

「善悪の知識」

不足しているものを補おうと神との約束を破って木の実を手に入れる。

至って普通のこと。

当たり前のこと。

それを聖書は「間違っている」と言う。

どこが間違っているのか。


カインとアベルはそれぞれ自分の労働の果実を神の前に持って行った。

アベルのものは省みられ、カインのものは無視される。

どこに原因があるのか。

どこにも見たらない。

怒ったカインがアベルを殺害する。

カインの怒りはもっとなもの。

カインはどうすればよかったのか。


不幸、理不尽、不条理。

聖書の始めに登場してき人々が体験したものは、この理由のない受け入れがたい現実。

しかも、その原因は「神」にある。

一体、どこに解決があるのか。

イエスは不条理の経験をしているものを励ます。

その経験は幸いだと言う。

なぜ、そのようなことが言えるのか。


「私のために迫害されるものは幸いだ」とイエスは言う。

「私」

それは悪魔の誘惑に打ち勝ったもの。

「辛い目にあったら、自分の力で乗り越えろ」

と勧めた悪魔の誘惑に打ち勝ったもの。

イエスはどのような体験をしようが「神を待つ」と言う。

「神を信頼し、神に仕える」と。

イエスの中で何が起こっているのか。


「神」

どこから、どこまでと規程できないもの。

「永遠」と表現される方。

広々とした、大きい方。

その方を思って、その方を信頼して、不条理に出会う。

迫害をされる。

広々とした方を思っている。

その時、迫害など些細なこと。

不条理など、私に解決できないだけであって、大きな方を思えば、どうでも良いものになる。


迫害、不条理

重大な出来事のようであっても

大きさが違う。

神の前でそれは、大きさが違う。

小さなもの。

永遠を信じるものには些細なもの。


神を信じる。

それが私の中に確かにあるのなら、不条理は小さいものと感じるのではないのか。

不条理は受け流せるのではないのか。

理不尽の対象を憐み、愛せるようになるのではいのか。


私の心の大きさはどれほどのものか。

自らに問いかけることが「信じる」へと進む修練となる。

「小さいもの」と「大きなもの」の区別をつける。

日々、刻々、

「信じる」へとつながる心のあり方を鍛える。

修練をする。

「信じる」ものの生活となる。



本多記念教会

サイト

https://www.hondakinen-church.com/

facebook

https://www.facebook.com/hondakinen/

YouTube

https://www.youtube.com/channel/UCRRjBPZolWZWF7Z1jedKfqg

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000