2月28日 礼拝

主日礼拝

伊藤大輔牧師

マタイ福音書5章17−22節

「きちんと生きる」とはどういうことか。


イエスの時代のファリサイ派、律法学者。

律法をきちんと守っていた者。

ところがイエスは、この者たち以上にきちんとしなければならない、と説く。


使徒パウロ。

彼はファリサイ派の者。

律法をきちんと守ってきた者。

そのパウロが自分の心の内を語っている。

律法を守ってきたが、虚しさしかなかったと。


常識を守る。

伝統を重んじる。

決め事を守り、業績をあげる。

良いことであるが、「きちんと生きる」とは必ずしも重ならない。

「きちんと生きる」とはどういうことか。


アダムとエバは蛇に唆されて木の実を食べた。

彼らの心の中には何が起こっていたのか。

心が乗っ取られていた。

「食べなければ」。

心が硬くなり、動かなくなっていた。


アダムとエバの息子カインは弟アベルを殺す。

弟が自分より高い評価を受けたことに心が乗っ取られる。

心が硬くなり、動かなくなる。


神から遠ざかる。


イエスは「人の心」を持っていた。

そのイエスが荒れ野で誘惑を受ける。

「空腹なら石をパンに変えろ」

空腹、命の危機。

人は自分の体を心配し、それを守りたくなる。

自分の体の心配が心を支配する。

この体は誰のものか。

自分で造ったのでもなく、その終わりもコントロール出来ない。

「体」は私がどう思ってもどうすることもできないもの。

どうすることも出来ないものに思いを馳せれば心は乗っ取られる。

私は「体」で生きるものではない。

神の言葉で生きる。

「体」から「私」「心」を引き離す。 


心が乗っ取られる。

心が支配される。

それは心が奴隷になること。

ファリサイ派、律法学者、彼らの心は「これが大事」「これは絶対」との思いに囚われていた。

心が奴隷になっていた。

神が人に与えた心はどのようなものか。


アダムとエバは「善悪の知識の木の実」を食べることも、食べないことも出来た。

奴隷の心ではない。

自由な心が神から与えられていた。

奴隷の心で生きても「きちんと生きる」ことにはならない。

神から与えられた「自由な心」

これを磨くことで、私のこれからが見えてくる。

自由な心によって生きる。

きちんと生きることにつながっていく。


私の心は何かに侵入、支配されていないか。

私の心を見直しながら歩む。

主イエスが私たちに示してくれたこと。



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