3月21日礼拝

伊藤大輔牧師

マタイ福音書5章21−26節

「信じるもの救われる」

この内容は非常にきびしいもの。


洗礼を受ければ救われる、ならば話は簡単。

洗礼を受ければ良いこと。

だが「信じる」とは私だけが分かること。

私だけが確認できること。

私がこんなことでは神様の前に行った時に申し開きができないな、と思ったら、それはその通りになるでしょう。

私は本当に神様を信じているのか、信じてはいないのか、それも自分だけが分かること。

そもそもどうすれば「信じる」と言われるものは生まれてくるのか。

自分だけで確認する。

相当にきびしいもの。


「人を殺してはならない」

この戒めはほとんどものが守っている。

だが、その心で隣人を呪ったり、否定をするのであれば、

それは人を殺していることとなんら変わりはないと、主イエスは仰る。

見える行動ではない、心がどうか。

それが大切。


捧げ物を持っていく。

とても大切なこと。

何にもまして大事なこと。

だが、その大事なことの最中に、仲違いをしている人のことを思い出したなら、

行って、仲直りをして来いと主イエスは言う。

何にもまして大切なことより、もっと大切なことがある。

心の中にある「わだかまり」

それをそのままにしておくな。


「わだかまり」は放っておけば、次第に心が乗っ取られていく。

「わだかまり」をいつでも意識をする。

「わだかまり」が露見しないように。

「わだかまり」を持っている自分の正当性を主張する。

「わだかまり」に引っ張られ、乗っ取られ奴隷にされる。


「良きサマリア人の譬え話」

怪我をした旅人。

祭司、レビ人はそのものを見捨てる。

自分なりの正当性をこしらえたのでしょう。

こしらえたものにしがみつき、心を頑なにして通り過ぎる。

「わだかまり」に引っ張られた硬い心が彼らの心。


怪我人を見つけたサマリア人。

介抱して宿屋に送り届ける。

宿屋の主人に足りなかったら精算すると言う。


なんの躊躇いもない。

自然な心で、当たり前のことをする。

何にも乗っ取られていないから。

当たり前のことができる。

自由な心。


「わだかまり」に気がついたのなら、それを放っておくな。

その結果がどうなるかは心配しなくても良い。

私ができることを私がする。

私ができないことに手を伸ばせば「わだかまり」が大きくなっていく。

私のできることを見極め、行っていく。

「わだかまり」が小さくなっていく。

軽い心になっていく。

軽い心で神の前に出ていく。

きっと神様が喜んでくださる。

私の最後は大丈夫。

そう信じられれば救われている。


その実感が生まれる。

私が私の心を大切にする。

神様が私に望んでいること。



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