9月12日 礼拝

9月12日 礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 8章23−27節

「あなたは地の塩、世の光」とイエス様に励まされている。
私には掛け替えのない賜物があると信じているはず。
「心の貧しいものは幸いである」
頼るものがない。
それは依存するもの、支配されるものがない状態。
私以外の何かにすがらない状態。
その状態が一番良い。
その状態でこそ、自分の「光」「塩」を見出すことができる。
ただ、これは人の評判、評価、富、権力、
自分以外の何かが心に貼り付いてくると、見えなくなっていくぞ
とイエス様から教わってきた。
言葉を聞き、喜んでいたはずの弟子たち。
その弟子たちが湖を渡ろうと船を漕ぎ出している時に嵐に襲われる。
転覆しそうになる船の中で大慌てをして眠っているイエス様を叱り飛ばす。
「私たちは溺れそうです。助けてください」
もっともな懇願。
だがこれに対してイエス様は呆れて答える。
「信仰が薄い」
「どうして怖がるのか」
弟子たちの何がいけないのか。
弟子たちは支配されている。
自分以外のものに。
嵐に、恐怖に心が乗っ取られている。
イエス様の言葉を聞き「心が乗っ取られないように」を肝に銘じていたはずなのに、まんまと支配される。
何が足りないのか。
イエス様は弟子たちに起こされて風と湖を叱る。
するとすぐにイエス様の言うことを聞いて静かになる。
「心を乗っ取られないようにしよう」と思っていても恐怖に心が奪われる。
何が足りないのか。
信仰が足りない。
私たちはイエス様を、神様をどの程度のものと思っているのか。
「神様」という言葉から髭をはやした、白い衣を来たおじいさんを想像することもあるだろう。
どのような姿であれ、私たちは何がしかの「神様」の姿、形を想像する。
その姿、形は空の上か、雲に囲まれてか、どこかにいるものと考えているのではないか。
それは時間と空間の中に神様を捉えていること。
嵐と戦ってくれる神様も同じ。
嵐に向かって戦いを挑む神様。
風に衣をはためかせながら風を叱る。
冒険活劇の挿絵ならばそれでもよかろう。
だが聖書が語る神は時間と空間に拘束をされる神ではない。
時間を超え、空間を超えている。
私たちが言う「形」「姿」などと言う時空の産物にも囚われていない。
時間も空間も神様の産物。
嵐など小さな作品にしか過ぎない。
何よりも大きく広い方。
その方が「あなたは地の塩だ、世の光だ」と言っている。
その方が「あなたに掛け替えのない賜物がある」と言っている。
言い切っている。約束している。
その方が作った「嵐」にどうして怖がる必要があるのか。
大きな方が、私を生かしている。
怖がっている暇などない。
神様が与えてくださった使命に気がつき、それを磨くのが私たちの生活ではないのか。
嵐に怯える。
信仰が薄い。
神様の大きさを分かっていない。
信じていない。
何よりも大きい方が私を見ている。
私に力を与えている。
コロナ禍も大きな嵐。
私たちを疲弊させるものであるが
これも神の内にあるもの。
慌てるものでなく、心落ちくけ、私の使命を見つけ果たしていく。
恐怖に支配されない心。
神様の大きさを思い出せる心。
神の願う心を私の心とす
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