人の知らないもの
2月5日
マルコによる福音書15章1-15節
主イエスはどうして人々に憎まれたのか。憎んだ首謀者は祭司たち。ピラトが裁判の過程でイエスを釈放しようとする。その理由は「祭司の妬み」と分かっていたから。憎しみの原因、十字架の原因は「妬み」。「妬み」とは何か。
人は遠くの者に妬みを覚えない。イチローが活躍することは嬉しさこそ覚えるが「妬み」を持たない。ところが近い者には「妬み」を感じる。あの人が持っていたものは本来、私が持つはずのものだった。あの人の地位は、私が就くはずのところだった。近さが「妬み」を生む。
「妬み」。あの人の「私はこういうもの」というアイデンティティ、それは私のアイデンティティだったのに。アイデンティティへの不満が「妬み」となる。主イエスの語る神の国、律法の解釈、人々からの賞賛、それは本来、私のものだった。祭司たちの思い。
彼のアイデンティティは私のもののはずだった。妬み、後悔。その後悔は私に張り付いたアイデンティティは動かしようがないと思った時に生れる。
しかしアイデンティティは動かないのか。バラバは「処刑される者」というアイデンティティを持っていた。それが主イエスとの交換で「生きる者」となった。アイデンティティが変わった。動いた。イエスの命によって。
バラバだけではない。主の十字架はすべての者を引き受ける。ならばすべて者のアイデンティティは変わる。祭司も気がつくべきだった。私も変われる。
人は誰もが新しくなれる。周囲の者が認めない。当然のこと。それは神の業。人の賛同は必要ない。必要なものは信仰。
信じる。新しい私が今日、始まっていく。
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