条件なき信仰

2月12日

マルコによる福音書15章16-32節

主の十字架は聖書の頂点。それはわたしたちの生活、世界の中心でもある。中心に何があるのか。

主を十字架にかけたものは口々に言う。「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」「メシア」。それになりそこねた者として主をあざける。彼らはイエスがそういうものになりたかったと考える。それは彼ら自身の価値判断の現れ。世界の中心は「上」に立つもの。「王」「メシア」神の次に上に立つもの。その者が世界の中心だと。だが、主イエスは彼らの考えている中心を求めていたのか。

主のご生涯は、人の言葉を聞く生涯だった。中風を患う友人たちの願い。長血の女の願い。娘を失った父親の願い。豚の中に入りたいという悪霊の願い。主は彼らの言葉を全部聞いた。

主が十字架にかかったのは、人々と争って敗北したからではない。神の御心を聞ききってかかった。主は「王」になろう、「上」に立とうとは思っていない。「聞く」「受け入れる」。「人の子は仕えられるために来たのではない。仕えるために来た」。弟子の足を洗う主イエス。主は上を目指していない。「下」へと進む。

「下」へ進む。相手を受け入れる。勇気がいる。悪の増幅を黙認することになるのではないかと。ゲッセマネの祈り。血の汗の祈りがそこにある。そこまでして主は自分を殺そうとする者の言葉まで聞き入れる。彼らの「下」に行く。

何が世界の中心か。中心は「上」にあるのではない。「下」にある。私たちが「下」へと進むことそれも大切。だが中心はわたしたちの行いではない。主が「下」に行かれた。何が起こったのか。神が私たちを愛している。私は愛されている。その喜びが世界の真ん中にはある。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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