終わりから

2月19日 

マルコによる福音書15章33-47節

「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」。主は十字架で最後に「神が分からない」と言う。これは、わたしたちを悩ませる。神の子が、どうしてこのようなことを言うのか。神の子は全部分かっているはずではないのか。最後の最後にどうして疑問を語るのか。

「エリヤが来るか見ていよう」。十字架を見物していた人々。この者たちは落ち着いている。ここで十字架にかかっている者は神と関係ないと思えるから。わたしは神が分かっている。だから、この者は十字架にかかって当然なのだ。わたしは分かっている。

分かるとは何か。わたしたちは「分かる」を求める。分かるは良いことだと信じている。人は分かったら安心する。これはこういうもの。その仕組み、その作用が分かる。分かるは手中に納めること、支配すること。終わらせること。

もしかしたら、わたし達の価値基準は間違っているのかもしれない。「分かりたい」、それは「終わらせたい」と願うこと。世界を終わりにしたい。そんなことを願っているつもりはないはず。どうして矛盾が生れるのか。

ゲッセマネの園で血の汗を流し「御心のままになりますように」と主は祈られた。分かったから従いますではない。委ねる。分からない方にすべてを任せる。分からないをわが命とする。愛する。

「分からない」。終わらせない。最後までそのものを尊重する。

「まことにこの人は神の子であった」。百人隊長は告白する。主イエスは神を分からないものとしながら命をあずける。そこに己を超えた神への信頼がある。

教会は世界の「終わり」を求めえているのか。「永遠」を求めているのか。「分からない」を愛せるか。その問いへの姿勢が教会のこれからを決めていく。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000