本当の慰め

2月26日     

コリントの信徒への手紙Ⅰ1章4-7節  森下 滋神学生

この世の言葉。死は終わり。強制終了。だから自分の人生は自分の好きなように生きればよい。こうして神に背を向け人間は自己という神を創作する。

 慰め、苦しみ、救い、希望の関係性。この箇所の慰めとは元来「呼びかけ」という意義であるが通常多義に訳される。9回使われる「慰め」の真意を前後の文脈により決定する事は困難である。 私たちは時に不確かな慰めよりは、より現実的な解決に期待を持つ。

宣教中に苦難の中で死を覚悟したパウロに神は呼びかけ励まし慰めた。ではキリストの苦しみとは何か?主イエスの十字架の死の意味とは何か。父なる神への呪いか。否、我らの罪を贖って死ぬことだ。十字架の主の苦しみが、我らの罪を赦すために今も世界に満ちあふれている。キリストによる慰めとは主の復活。主は我らの一番の苦難である死に打ち勝ち、主同様に私たちも復活する希望となる。 この慰めは教会において苦しみを慰めに変え、死から救いへと変えるキリストの復活の力である。パウロは勧める。慰めを受け取れ。それは苦しむ者の全てにまで及ぶ生ける神の力の顕れ、今も働く聖霊の力である。

真の慰め。しかしコリント教会は慰めのみを求め、十字架の言葉を拒否しようとした。(1Cor1:18を見よ) 復活が信じられないと十字架を拒否するコリント人と現代人。すると私たちは私たちの知識や経験を誇りだす。十字架でない別の福音でもよいではないか。

だがパウロはあきらめない。真の慰めは主イエスの十字架であり、その先には希望がある。今私たちは主イエスの十字架と復活による十字架の言葉を固く信じるか。これを超える慰めは存在しない。もし信じられないなら、自らの罪を告白して今悔い改めよう。信仰を求める人は、十字架で死んで三日目に復活したナザレのイエスは神の独り子、救い主であり、私たちの人生の唯一の慰め主であると、今、聖霊の働きにより主イエスを告白しよう。アーメン。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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