人知の先
3月5日
創世記18章1-15節
三人の旅人がアブラハム、サラ夫妻のそばを通りかかる。アブラハムは慌てて彼らを引きとめ、急いで給仕を始める。パン、肉料理、大急ぎで整える。
三人の旅人は語る。「来年の今頃、またここに立ち寄る。その時、サラには子供が与えられている」。それを聞いていたサラは笑ってしまう。「年をとった夫婦に子供が生まれるはずはない」と。
急ぐアブラハム。年をとったものに子供が生まれるはずがないと考えるサラ。そして、来年、また同じ所に来ると語る旅人。この三者の言動は私たちに何を告げているのか。
アブラハムがとった行動「急ぐ」とは何か。なぜ人は急ぐのか。遅れてしまうから。取り返しがつかないから。時間は取り戻せない。時間は一度過ぎたら戻すことができない。「急ぐ」は時間への理解と結びついている。サラの「子供はできない」も同じ。年をとる。子供を作る能力を一度失ったらそれを取り戻すことができない。失ったものはかえって来ない。
旅人は語る。「来年、また来る」。また同じことをする。同じが起きる。旅人は時間とともに失われ変化する世界を想定していない。
アブラハム、サラ、そして私たちは、時間は過ぎていくもの、失われたものは回復されず、最後は「死」という絶対的喪失に支配されすべてが終わると考えている。聖書の記述が突然変わり「旅人」が「主」と改められる。「主」が語る。「来年来る。子供があなた達に与えられている」。同じ言葉が繰り返される。同じ、変わらない、永遠。
人は一直線上の時間を逆戻りすることも許されず、ただ進むそれが私たちの世界だと思っている。神はこの世界は永遠だと告げている。経験で世界を把握するのか。信じて世界と向き合うのか。喪失に怯えながら生きるのか。何も失われることはないと平安と希望を持って進むのか。思いひとつで世界は変わる。
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