無いの希望

3月26日  

マルコによる福音書16章1-8節

主イエスの生涯を記した福音書。ここに記されているのは歴史のひとこまではない。主イエスの生涯、ここに福音書は世界のすべてを見る。主の生涯を記すことは世界を記すこと。過去を、未来を記すこと。主の出来事のどこに私の世界が語られているのか。

愛する主イエスが十字架にかけられ命を落とされた。主と親しかった女性たちは安息日の次の日の朝早く主の遺体に香油を塗るために出かけて行く。主を失った。深い心の傷。それは決して癒えない傷であると彼女たちも承知をしていた。大きな石が墓をふさいでいる。彼女たちの力ではその石を動かすことはできない。墓に行っても何もせずに引き返すことになるかもしれない。傷は何も変わらないかもしれない。それでも彼女たちは墓に出かけて行った。

到着してみると石は転がしてあった。私の知らないところで誰かが何かをしている。私の傷を癒やす備えを始めている。私の傷である、悲しみの原因、主の遺体に触れようと墓穴の中に入る。すると、白い衣を着た若者が彼女たちに告げる。「主はここにはおられない。弟子たちに告げなさい。ガリラヤに主は先に行かれている、と」。

墓、悲しみの場所。動くことのないすべてが終わった場所。そこでガリラヤへ行けと告げられる。

ガリラヤ。主が活動を始められた場所。弟子たちと出会った場所。彼女たちもまた主と出会ったのはガリラヤ。ガリラヤはすべてが始まった所。墓、終わりの場所で「始まり」の場所のことを聞く。墓に、終わりに、始まりがある。

悲しみ。終わってしまったもの、災害、戦争、喪失、死、止まって動かないもの、悲しみを作り出す。そして世界は終わりへと進んでいる。私たちの世界観。しかし、あるひとつの世界観。

主の生涯が告げる世界。終わりに始まりがある。終わりはない。あるのは永遠。悲しみではなく、感謝と喜び、平安が包む世界。私たちはどの世界にいるのか。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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