10月24日 礼拝

10月24日 礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 9章27−31節

心はどのように整えれば良いのか。
「地の塩」「世の光」
私の賜物はどのように見出せば良いのか。
山上の説教の後、主イエスは連続して奇跡を行っている。
中風のもの、病気のもの、目の見えないもの、
これらを癒していく。
相手は変わっていく。
変わっても、それらの出来事の中で変わらないものがある。
主イエスはそれぞれの相手に「信仰」を確かめている。
私にできると信じるか。
あなたの信仰があなたを救った。
信じたと通りになるように。
信仰を必ず、確認している。
「奇跡」と聞くと私たちはその結果に興味を抱いてしまう。
病、問題を主イエスが解決をしていく。
それゆえ
「イエス様は素晴らしい」から
「こんなことはあるはずがない」との批判まで
奇跡の結果に注目をして出てくる言葉がある。
だが、この一連の物語は奇跡の結果を読者に訴えるためのものなのか。
違うのではないか。
奇跡の種類は変われど、主イエスが共通して確認をしているもの。
「信仰」
ここがむしろ私たちは注目をしなければならないことなのではないか。
主イエスが指摘をする「信仰」
これは出来事、課題の途中、経過地点で現れる。
問題、病を抱えている。
その時に「信じているか」と問われる。
問題を抱えている最中に
苦しんでいる途中で信仰は問われている。
私たちが心を整える場
「地の塩」「世の光」を見つける場所
それは答えにたどり着いたゴール地点ではない。
安全、安心に満たされたところがその場所ではない。
途中
進んでいる最中
そこが大事な場所になっている。
山上に説教後の奇跡物語において「信じる」は肯定的に用いられている。
ただ一箇所、主イエスから「信仰が薄い」と言われる場面がある。
湖で嵐に遭遇した弟子たち。
彼らはそこで慌てふためいた。
その時、主イエスに「信仰が薄い」とたしなめられた。
信仰とは何か。
病を癒されたものに共通しているもの。
信じている。
この先があると信じている。
ここが終わりでないと信じている。
途中
問題に真っ只中にあって、この先があると信じている。
信じる、それは「希望」とも置き換えられる。
嵐の中の弟子たち。
彼らは恐れた。
先がないと考えた。
希望がない。
すなわち「信仰が薄い」と言われてしまう。
心が整う場所
私が自分の賜物に気がつく場所
問題と直面をしている途中。
闇の中
そこで希望を持つ。
その時、私の心は定まっていく。
賜物を磨かれていく。
心の定まった私に主イエスは語る。
「信じた通りなるように」
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