今、ここにある
4月16日 イースター
ヨハネによる福音書20章11-18節
主イエスの墓の中で泣き崩れるマリア。
愛する主を失った。
唯一の拠り所である主の亡骸さえも何者かに奪われてしまった。
何の希望も見出せない。
ただ泣くだけ。
「墓」
それは「死」の象徴。
先がない、動くことができない、ただ終わるしかない行き止まり。
マリアはそこで泣いている。マリアのみならず、誰しもが同じであろう。
先がない「墓」「死」の前ではただ泣くことしかできない。
そのマリアに声をかける者がいる。
「なぜ泣いているのか」。
マリアはそれが園丁だと思い「あなたが私の大切な主の亡骸をどこかに移したのならそれをすぐに返してください」と訴える。
その者が答える。
「マリア」。
最後の晩餐の時、主イエスは弟子たちの足を洗い出す。
人の最も汚れているところ「足」。
それは心に、体にこびりついた「罪」。
足を洗いながら主は弟子たちに告げる。
「あなたたちは私を裏切る」と。
弟子たちはこれを否定する。
そんなことがあるはずがないと。
だが、この後、弟子たちは主の言葉通り、ある者は主を敵に売り渡し、
ある者は逃げ去り、ある者は主に呪いの言葉さえ浴びせる。
人は罪を犯す。
人は汚れてしまう。
汚れてからではない。汚れる前に洗う。
罪を犯す前から罪を洗う。
必ず洗い落とす。
神は速い。
悪魔がユダの心を支配する前に、
ペテロが裏切る前に、洗っている。
マリアは墓の前で泣き崩れている。
「なぜ泣いているのか」。
泣く理由がまだそこにあると思っているのか。
神は速い。
あなたが泣いている原因、それはもう、そこにはない。
「マリア」
声に振り返る。
「先生」
悲しみの理由はなくなっていた。
先生が、主イエスがここにいる。
私のうしろに光がある。
振り返れば喜びがある。
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