10月31日 主日礼拝
10月31日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書 9章32−34節
イエス様の奇跡を目撃したファリサイ派の人々は呟く。
「この人は悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているのだ」と。
ファリサイ派の人々は何に注目をしているのか。
どのように奇跡は起こったのか。
その方法、仕組みに注目している。
ここに注目をしだすと結論はこうなる。
私は悪霊ではないから奇跡は起こせない。
これは「悪霊」を「神の子」に替えても同じ。
私は「神の子」ではないから奇跡は起こせない。
イエス様の奇跡とはイエス様以外のものとは関係のないものなのか。
山上に説教の最後でイエス様は
「私の言葉を聞くだけではダメだ」
「行え」と言われる。
それに続くのが奇跡物語。
奇跡は私と関係がない、というものではない。
私たちは奇跡とどのように関係しているのか。
山上の説教以降の奇跡物語の中にあるファリサイ派とのやりとり。
イエス様が彼らに告げる。
神様が求めているのは「生贄ではなく憐みだ」と。
生贄とは制度、方法。
憐みは、心の動き。
断食の問答では「結婚式の最中に断食はしないだろう」
これに続き「新しい酒は新しい皮袋に入れる」と言われる。
ここで言われていることは直面している現実に相応しい態度とは何か。
どんなに正しいとされているものでも現実に即していなければ、意味をなさないだろうという指摘。
心の動き。
それは現実と直面をした時に起こるもの。
地の塩、世の光。
私たちは神様から掛け替えのない賜物をいただいている。
だが、心が何かに支配されているとそれが分からなくなる。
現実を直面をした時、心が動かない。
何かに支配をされていれば硬直してそこに相応しくないものを提示する。
方法、しきたり、これまでの習慣。
直面した現実を見ずに「何か」にすがりそれで対応しようとする。
奇跡物語を読む読書に聖書が期待をしていること。
奇跡の方法論に注目をするのではない。
奇跡は何故起きたのか。
それはイエス様の心が自由だったから。
イエス様ご自身が自らの「地の塩、世の光」を発揮したから。
それはどうしてできたのか。
愛していたから。
目の前の一人一人を、
直面した現実を愛していたから。
愛するもののために自分のできること、それをただ行った。
愛するができる心。
自由な心。
その心があればイエス様の言葉を聞くだけでなく行う者となる。
イエス様の奇跡と同じく世界に喜びを与えるものになっていく。
奇跡物語は私の物語になっていく。
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