「怒らないこと」

5月14日

フィリピの信徒への手紙1章12-30節  

パウロは主の福音と出会い回心をする。

福音とは何か。


 パウロは熱心なユダヤ教徒、そして神学者でもある。

パウロの回心を湯ユダヤ教からキリスト教への鞍替えと考えては福音の大きさが見えなくなってしまう。

パウロはむしろ福音に出会ってから一層熱心なユダヤ教徒になったと言っても良い。

福音は鞍替えではない。


福音とは何なのか。


 手紙においてパウロの信仰を表す特徴的な言葉を繰り返している。

自分が囚われた。それを機にパウロの志をくんで熱心に伝道するものが出てきた。

また逆に、これを好機とばかりに、パウロの評判を落とすような言葉で伝道をするものたちが現れてもいる。

いわば敵と味方が競い合っている。

その様子を見てパウロは「どちらでもいい」という。

キリストが宣べ伝えられるのなら「どちらでもいい」と言う。


 死ぬこと、生きながられることえること、その両方が自分と直面している。

その際も、どちらを選べばいいか分からない、「どちらでもいい」と言う。


 パウロは教会を迫害していた。

神の言葉を軽んじるものが教会だと思っていた。

自分は正しく彼らは間違っていると。

「正しいもの」「間違っているもの」世界はそのせめぎ合い、戦いだと思っていた。


 パウロは囚われの身となった。

自由に伝道ができない、福音が広がらない、そう思っていた。

ところが兵営全体に、さらにそれを超えて福音が伝わっている。

自由でも、囚われていても、福音は伝わる。

どちらでもいい。


 福音とは何か。

「こちらでなければならない」

「これが正義だ」

人が執着して作り出した信念を吹き飛ばす。


神の業は、神の世界は、私たちが固執をして進めるものではない。

神が進める。

「こうでなければ」

執着していなくとも良い。

どちらからでも、どのようにでも、必ず神の御心は成る。

福音は、「私の正義」は「執着」だと教える。

信仰はすがることではない。

握りしめることではない。

神を信頼し、安らぐこと。

「どちらでも大丈夫」

福音に出会ったパウロだから語れる。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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