神に任せる

2017年7月9日

フィリピの信徒への手紙3章1-11節

「人の喜び」それは「人の正しさ」と結びつく。

それはどういうことか。


パウロは激しく非難する。

「あの犬ども」と叱責する。

それはかつての己の姿、自分自身。

パウロは生まれも、育ちも立派なもの。

努力もし、たくさんのものを手に入れた。

古からの教えも守り、

それを徹底していた。

何も間違ったことはしていない。

神に愛されている。

神は私を応援している。

自信があった。

それ故、安息日を守らないもの、

律法を軽んじるもの、

罪びとと食事をするもの、

神殿の礼拝のしきたりを批判するもの、

それを許しはしなかった。

イエスの言葉を信じるもの、教会をパウロは迫害した。


勉強熱心なパウロはおそらく敵である教会のことも調べたのだろう。

イエスについても勉強をしたのだろう。

そして、ある時、イエスと出会ったとしか言いようのない体験をした。

イエスがなぜ律法を批判したのか。

それは律法の神髄を伝えるためだ。

イエスは十字架にかかった。

もしそれが本当の神の子だといたらどうなる。

何が分かる。

神は黙っているではないか。

神は何を人がしても何もしないではないか。

それは神は人の行いによって態度を変えるものではないということなのではないか。

何をしても、何もしなくても、神は変わらず、

私たちの神なのではないか。

イエスは人が縋っているものを否定した。

人がしがみついているものをいらない、とした。

神はそんなものに興味はない。

神は私が作った「私」に惑わされはしない。

神がお造りになった「私」それを喜び、愛している。


パウロはすべてがいらなくなった。

自分を作り上げていたと思っている、立派なものが、すべて必要なくなった。


「人の正しさ」は社会が、

人が作った「正しさ」で身を固めて正しくなるわけではない。

初めから、生まれた時から、生まれる前から、

すべての創り主である神が喜んで私を包んでいてくださる。

ただ信じること。

受け入れること。

それだけが「正しさ」を表せる。

神が喜んでいる。

この私を。

嬉しくなる。

人の喜び、正しさ。

私は何をしても、しなくてもいい。

ただ信じる。

それだけで与えられる。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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