「心を重ねる」

2017年7月2日

フィリピの信徒への手紙2章19-30節

わたしたちの心はどうなっているのか。

どういう心の状態が良い状態なのか。

 フィリピの信徒への手紙は

パウロと教会との間で起こっていることがらに対しての思いを表した言葉。

具体的な事柄を語っているものであるが、その中に「良い心」の一つのヒントがある。

  

この手紙でパウロは「どちらでもいい」と語る。

パウロを陥れようとして伝道する者、

励まそうとして伝道する者、

正反対の姿勢であるが、

どちらでもいい、という。

生きるのも死ぬのもどちらでもいいと言う。 


ところが若い時のパウロは「こちらでなければならない」という思いを強烈に持っていた。

教会を迫害する。

こちらが正しく、向かうは間違っている。


「こちらでなければ」はパウロからはじまったものではない。

蛇と対話をしたエバの心にはある一つの思いが芽生えていった。

蛇は「神の命令」と違うことをエバに告げる。

「全部の木を神は食べてならないと神は言ったのか」。

間違った言葉を聞き、

蛇より私の方が神様について知っている、と思ったエバは蛇との対話を始めてしまう。

私の方が知っている。

私の方が優れている。

私は特別。

そのエバに蛇は「神はあなたに隠し事をしている」と告げる。

善悪の知識の木の実食べると神のようになれる。

特別な私を神は特別扱いしていない。

私が特別なのを見せてやる。

木の実を食べる。


息子のカインも神から特別扱いされなかったことに怒り弟を殺してしまう。

私は特別、私以外のものはダメ。

こちらでなければ、私でなければダメ。


人の始めから芽生えた心をパウロは継承する。

私でなければダメ。

私が私に固執する。  


神の身分であった者がそれに固執しない。

人になった。

自分は正しいと主張せず、敵の言葉を引き受け十字架にかかった。

本当に特別な方が特別を追いかけていない。

信じる。

こちらかあちらかがいらなくなる。


パウロは囚われの身となっている。

不安、孤独に支配されているはず。

それでもパウロは自分を支えていてくれているテモテとエパフロディトを送り出す、と言う。

どちらでもいいと言うパウロの姿勢は何を生み出しているのか。

心配がなくなっている。

未来をただ希望でしか捉えていない。

何があろうと、それを喜びで引き受けられる。

「良い心」

「いつも喜んでいる心」 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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