道なかば

2017年7月16日

フィリピの信徒への手紙3章12節ー4章1節

「どちらでもいい」と語るパウロ。

 あれでなければ、これでなければ 

に囚われていない。

執着していない。 

なぜパウロは執着しない生き方を選ぶのか。


 執着が激しかった時のパウロ。

きちんと整理していた。

正しい、間違いを整理していた。

そして間違ったものを厳しく教育した。

その教育に従わない者は処罰した。

間違った者はいらないものとした。

執着のあるパウロは裁くことこそ人の道と思っていた。

そのパウロが「どちらでもいい」と言う。

だが、同じフィリピの手紙でパウロは

「あの犬ども」「十字架に敵対している者」と明らかに裁く言葉を語っている。

執着がまだあるのか。

否、この言葉にこそ、パウロは執着を捨てて得られたものが現れている。 


パウロが敵とみなしているもの。

それは明らかに以前のパウロ、自分自身。

そして、彼らについて「涙ながらに」にと語る。

今のパウロとは違う者、敵ですらある者、この者たちのことを語るとき「涙ながらに」と語る。

心配している。

心を砕き、真剣に向き合っている。


 教会を迫害していたときのパウロを教会は、イエス・キリストはどう見ていたのか。

今のパウロには確信があった。

愛されていた。

迫害している、敵である自分が愛されていた。

敵、味方ではない。

どちらでもいい。

神はあちらかこちらかを問うような方ではない。

全部を、すべてを愛する。

 パウロは敵の存在を自覚している。

しかし、それは戦う相手ではない。

心配をする相手、親身になる相手、愛するもの。 


なぜパウロは執着しない生き方を選ぶのか。

愛するため。

あちらも、こちらも愛するため。

なぜ愛するのか。

牢獄に囚われているパウロだからこそ分かっていたものがあった。

どんな状況でも人を生かすもの、

私を元気付けるもの。

愛すること。

人が元気でないなら原因は簡単。

愛していないから。

愛する。

それだけで人は生きていける。 

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